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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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以前の記事で、「好きな人がいるのはあなたがあなたを好きだから」
書きましたが、じゃあ嫌いな人の存在は何ぞやと思うかもしれません。

「好き」という言葉から受ける印象が色々あるので表現が難しいのですが、
全部自分が創っているのだから、基本的に「全部受け入れる」つまり「嫌いとか
憎たらしいとかが無い」
という事です。

つまり「受け入れ状態」=全部好きとか愛が溢れてますとかスピ系でよく見る
クサい表現の状態がデフォルトなわけで、嫌いという概念は本来存在しないので
あります。

ただこう書くと「じゃあさっき私をぶん殴った変なオッサンまで好きだよとか
愛しているとか感じなきゃいけないんですか、そんな事出来ません!」と
なると思われますが、そういう意味ではありません。

それだと「殴られた怒りを抑えるために」無理矢理「愛を感じます!」とか言い出すという、
傍から見るとアブナイ人になってしまいます。

実際はただ単に殴られたっつー事が在るだけです。それを創ったのはあなたであります。
「なんでそんな事を創ってしまったんだ!」 そんな事は知りません、
大体そんな事いちいち言い出したら、なんで自分が日本人なんだとか、なんで俺は男なんだとか
なんでこのブログは飽きもせずに毎日更新されてるんだとか切りが無いじゃないですか。

つまり「何故俺は日本人なんだ!」と「何故俺は殴られたんだ!」は同等なのです。
「殴られた」という言葉から受ける印象で「何だか良くないものを創っちまったぜ!」
勝手に騒いでいるだけなのです。
つまり「殴られた」という言葉、イメージに「悪い事だ」という「力」を与えているのは
他でもないあなたであり、あなたにしか出来ない事なのです。

それに気付けば、嫌いな人だろうが何だろうが関係無いのであります。
嫌いな人は、嫌いだという事に何故か力を与えていたので、どんどん肥大していくのです。
一日中嫌いだ嫌いだと感じていれば、そりゃどんどん「嫌い」が増大していきます。
好きな異性の事を一日中考えていると、どんどん「好き」が増大するのと同じです、
つまり紛れも無くそれらを創り出しているのはあなたです。

ですから「嫌い」に意識を向けなければ良いだけです、そうすればもう「嫌い」という事に
意識が行かなくなるので、「嫌い」は世界から消えていくでしょう。外の世界(と思っている)の
嫌いな人をぶっ殺して抹殺するとかではなく、あくまで自分の内側に
「嫌い」が創られているのだと気付き、それと距離をおけば良いだけです。
「嫌い」を肥大させるか、それとも距離を置くかはあなたにしか出来ません。

もし「殴られた」なら「殴られた」にわざわざ力を与えない事です。
「殴られた」が主役ではなく、主役はあくまであなたしかいないのです。
別に殴られたなら怒っても全然構わないのです、ただ主導権が怒りの感情にあるか、
その感情を認識しているあなたにあるかで、その後の展開はだいぶ違います。

つまり、感情とあなたは別物という事です。
どんな感情が湧いて出てこようが、それはあなたとは関係ありません。
関係無いということは、感情が主役ではなく、感情を選ぶことのできる存在、
すなわちあなたが真の主役であるということに気付けるのです。
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ここ最近は証拠を探すなとか何だとか書いていましたが、
テメエ何言ってるかよくわかんねーよという方は、願望がどうしたこうしたは置いといて、
「生きている」という証拠探しも止めてみたらどうかと思います。

大体何を根拠に我々は生きていると思っているんでしょうか?
手のひらを太陽にすかしてみれば真っ赤に流れる僕の血潮だからだ!という方も
いるかもしれませんが、とりあえずそういったあらゆる根拠を一旦疑ってみるのです。

あらゆる根拠を疑ってみると、実は我々は最初から生きてはいないという事に
気付くかもしれません。 では我々は既に死んでいるのか?というと別に死んでもいないと
思います。死んでいるという根拠も、やはりはっきりしないからです。

こう言うとちょっと宗教チックですが、我々は生死を超越した単なる「無」だったのであります、
以前ムームー星人とかいうタイトルで書きましたけど。
そもそも「生死」という概念自体が勝手に作り上げたのものです。

生きてもいないし死んでもいない、しかしながら何かに意識を向けると、意識を向けたものが
具現化していただけだったのです。

これは自分の肉体とか思ってるものもそうです、意識を向けなければ肉体は存在できないのです。

「俺は呼吸しているから生きているよ」というのも「呼吸」という概念に意識を向けたから
呼吸が出てきたわけで、そこから「生きている」という概念に勝手に結びつけて
いかにも結論付けているだけです。
この辺が、昨日ちらっと書いた願望の実現とそれまでの過程は実は何の関連性も無い、
という事にも繋がるのですが、今回はその辺の話は省略します。

さらに記憶だの時間だの何だのといった余計な要素がくっついて「偽りの私」(エゴ)が
誕生して、
いかにも俺が主役だみたいにエゴが振舞っていただけだったのです。
だからこのブログも意識を向けたから出てきているだけで、意識を向けなければ存在しないのです。



そう、このブログの著者なんて最初から存在していなかったのです。
昨日の記事は真っ二つに評価が分かれました。
これほど「何が何だかさっぱりわかりません!」というメールと
「全てわかりました!もうこんなふざけたブログは読みません、さようなら」というメールに
きれいに分かれたのはブログ開設以来初めてであります。

まあ昨日の記事の要約は、はやい話が「証拠を探すな」っつー事です。
常日頃から我々は常に「証拠」を探しています。

普段歩いているのも「地面に足がついている感触があるから」とか、このブログでも前に
書きましたが「空間が迫ってきているから」とか、色々なエゴを納得させるための証拠
探しています。

まず最初は肉体的な感覚から「証拠」を探し、その後は肉体を離れて空間に「証拠」を
探そうとします。で、その後さらに電波系になると認識が変わっていくと、
遂には「証拠」を求めなくなります。

「証拠」を求めなくなるとどうなるか、それは私の消滅であります。
「私は男である」と言いながら「証拠」として股間を見ても、それを「証拠」として
見ないのであります。

認識が変わらないと、この「証拠」を強烈に求めます、というより無意識に作ります。

股間からチンチンが生えている→これは私の股間である→故に、私は男なのだ。
というように「証拠」を次々と探しまくってエゴを安定させるわけです。
ですから一切の「証拠探し」を止めてしまう事です。

願望実現メソッドとかやってると、どうしてもこの「証拠」を探します。
昨日の牛丼云々でもそうですが、「牛丼が食べれるメソッド」をやっても
「でも俺、今は牛丼屋にいない!ドンブリも持ってない!メソッド成功してないじゃん!」と
なってしまいます。

これは正確に言うとメソッドの成功=何か証拠があるはずだ という強烈な思い込み
よるものです。

角度を変えて言うと、例えばウンコしたいと思って便器に座ってブリブリーと音がしたら
「俺はウンコしたんだ」と思います、ブリブリーを「証拠」として認識するからです。
実際は肛門からウンコがコンニチワする瞬間なんて見てないのに、です。

つまり、普段の動作にせよ浮かんできた願望にせよ、無意識にそれに対しての「証拠」を
勝手に想像し勝手に求めているのです。
「ナントカメソッドをやっているんだ、でもうまくいっているという”証拠”がどこにもない。
やり方が悪いんだろうか」

じゃあ証拠探しなんてやめれば良いじゃないですか、あらゆるものから「証拠」を
求めなければ良いのです。

「あれ?でも以前、願望が叶っているから研ナオコがテレビに出てるんだとか言ってたよね?」
その通りです、つまり研ナオコメソッドはこの「無意味な証拠探し」を止めるためのテクニックなので
あります。

大体証拠探しってメソッドに嵌まってるほど止められないんで、だったら何でもかんでも証拠に
しちまえという逆転の発想から生まれたのが、研ナオコメソッドの真の狙いだったのです。

昨日の記事の真意はこの辺を読み取って欲しかったのですが、あまりに素っ気無い書き方が
過ぎたかもしれません。これからは全ての証拠探しを放棄してみましょう。
日常の動作から何から何まで証拠を探さなくなった時、長い長い旅が終わるかもしれません。
リンクにブログ「ほんとうの話。」を追加させて頂きました。
このブログの執筆者は、おれんじさんというウマそうな名前の方ですが、
どうも女性のようであります。

当ブログも基本的に女性読者が多いようです、メールの投稿者の割合も
女性が6割・男性が4割って感じですね。
やはりスピ系は女性の方が入りやすいのでしょうか。

女性読者の心を掴むにはやはり恋愛ネタが良いのでしょうけど、
私自身の若かりし頃の恋愛経験を語ってしまうと「浮気がバレたらいかに屁理屈を
並べるか」とか「避妊大作戦」とかの生々しい内容になってしまうので、
基本的に恋愛ネタはあまり扱わないようにしているのです。

まあ恋愛だ何だっつー概念も結局創ったのは自分ですから、それをどうするかも自分で
あります。世界=自分に目覚めるという事は、自分が創った概念に全て責任を持つという
事でもあります。
だからこそ、概念を敵視してはいけないのです。
それはわざわざ敵を作り出すようなものです。

まあもっと追求しちゃうと「世界=自分」という概念も所詮は概念なので、
あんまりここに固執しちゃってもアレなんですが、その辺はややこしくなりそうなので
省略します。

概念が守っているものはエゴですが、エゴを守っていたとはいえ、取り敢えず守ってくれて
いたのですから、余計な概念に気付いたらその努力を認めつつ、お礼でも言って
別れれば良いのです。
「消えて無くなれー」とかベジータみたく叫んではダメです。

男女の別れもこのように美しく行きたいものですね、って読者はそんな事望んでないでしょうけど。
以前、アダルトビデオメソッドという衝撃的なメソッドを公開しました。

アダルトビデオを観ている時は、まさに世界と自分が一体化している!!という
男性なら誰もが経験している至高の瞬間に注目したメソッドです。

この画期的(?)なメソッドをもう少し踏み込んで解説していくと、
世界を構築している者はいるが、何かをしている者はいない、という事です。

つまり、アダルトビデオを観て股間の超合金をしごいている時は
完全に画面の中と一体化していて、「しごいている」という思考はすっ飛んでいるのです。

ここで重要な事実が浮かび上がります、それは「思考」を用いない限り
何も存在できないという事実であります。
昨日の「馬場とナオコ」と被りますが、観察者が居ない限りあらゆるものは存在出来ないのです。

「観察者」とは見たり聞いたりするだけでなく、思考で色々と思い悩んだりするのも
一種の観察であります、「観察した瞬間に”何か”が存在する」のです。
観察した瞬間に「真の自分」はウナギやドジョウのごとくスルっと逃げていってしまうのです。
何故ならその”何か”を起点に思考を用いてストーリーを作り始めるからです。

しかし、アダルトビデオをガン見している時は、観察もクソもなく画面の中に入り込んでいます。
もちろん思考であれこれ考えながら股間の超合金をしごいているわけでもありません。
ですが、アダルトビデオの画面は確かに存在しています。

つまり、この状態こそ「観察しているが、観察していない。存在しているが、存在していない」
いう、思考によって捉えられる前の真実の自分状態なのです。
そう、「真実の自分」は股間をしごく事で現れるのです(!)

全てはこの真実の自分から始まるのです。
思考でこれを捉えようとするとスルっと逃げてしまいます、それはあたかも自分の影を
追いかけようとしても決して捕まえられない
のに似ています。
しかし影は必ず足元に存在しています。

思考によって捉えられないものを、思考を用いたアプローチで迫っても、
それに気付くことは出来ません。
ですから思考を超えた本能とも言うべき
アダルトビデオ鑑賞で気付くのであります。

女性の方もアダルトビデオを観ろ、とはさすがに言いませんが
好きな男性の事を想うだけでも意外と近い効果があるかもしれません。
ただしこれは両想いの方限定です、「復縁したい」とか思ってると
「復縁したい」という思考が邪魔になります。

要は「色々と思い悩まないで本能で没頭できるもの」に接っする事で気付けば良いのです。

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自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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