数日前に「苦しいなら苦しいで放っとけ」という内容の記事を書きましたが、
「やっぱり苦しいでござる」という苦しみまくっている読者からのメールが
二、三通ほど来てしまいました。
そもそも「苦しい」とは概念であり思考であります。
「苦しい君」とか「苦しいさん」という人物がいるわけではありません。
起きている事や感情に「苦しい」という概念というかフレームを与えることで
初めて「苦しく」なるのです。
それを与えなければ、苦しいに限らず何も出てきません。すき家で牛丼を食っていても、「
すき家」という概念を与えなければすき家では
なくなってしまうのです。「そんなバカな。僕は今、すき家でチーズ牛丼食ってるんですよ。ここがいきなり吉牛に
なるわけないじゃないですか」 そりゃそうです、すき家の店舗がいきなり吉牛に
トランスフォームしたりするわけありません。
が、「すき家」という概念は看板だったり、店舗の形だったり、従業員の制服だったり
その他色々な概念を組み合わせているだけです。
それら無意識にやっている
「概念の組み合わせ」を止めてしまうのです。そうすると、「すき家」は
”あるんだけど無い”ものとなります。
文字通り
概念上から「すき家」は消えたのであります。これと同じで「苦しい場面」とか「苦しい世界」を見て、それを変えることは出来ません。
しかし、「苦しい」という概念を捨てる事は出来ます。無意識に作り上げている
「苦しいを作り出す概念の組み合わせ」を止めれば良いだけです。
このメソッドを行うことで、
「世界は自分が意識を向けたものしか存在しない」事が
わかると思います。何故そうなるかというと、結局世界と思っていたものは自分だったからです。
意識を向ければ手が動くとか歩くとかと同じで、意識を向ければ出てくるのです。
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