いわゆる「願望実現メソッド」の厄介な所はどうしても思考を伴う所です。
思考は本来必要無いし、思考には特にこれといった力もありません。しかし色んなメソッドは、思考の力を用いて何とかしましょうみたいなのが
多いので、この辺にパラドックスみたいのが生まれます。
まあこの辺の部分をグダグダ書くのはめんどくさいんで、話を端折ると、
「願望」っつーものに
特別な感情みたいなものを抱き過ぎなんですね。
以前の本願がどうしたこうしたの話と少し被りますけど、
別に願望なんてモンは
どうという事はないのです。
願望に対しては、高嶺の花なんていないぜ、
女はみんな娼婦だぜ的なマインドで
十分であります。
歩いたり、呼吸したりするのも別にいちいち神にお願いとかしないで
勝手にやっているはずです。そんな事いちいちお願いしてたら逆に天罰が下りそうです。
走れば速く呼吸するし、ゴロゴロしてればゆっくり呼吸しています。
つまり、
その時その時に合わせて勝手に最適化されたものが湧いて出ているのです。願望もこれと一緒で、ある願望を抱くタイミングは最適な呼吸をするタイミングと
同じなのです。それが
どういうわけか思考を用いて「願望」を何か特別な高嶺の花みたいに
考え、ついでにエゴも交えて何やら思い悩んでいるわけです。これはゴロゴロしてて、リラックスした呼吸をすれば良いだけなのに
「この素晴らしい呼吸をするにはどういったお願いをすれば良いんだ!」とか
顔を真っ赤にして息するのをガマンしているのと同じです。
結局「願望」を「願望」という名の高嶺の花にしているのは思考であり、
その概念を増強していくのがエゴであります。
エゴよって「願望」という「虚像」を見せられているのです、つまり寝ぼけているのです。ですから「願望実現」じゃなくて「娼婦」と呼んでも良いのです。
ただ
「カテゴリー・娼婦」とかなってると
意味がわからないので
読んでくれている人の事を考え、便宜上「願望実現うんたらかんたら」と書いているわけです。
呼吸したり歩いたりしてるのだって、絶妙のタイミングで息をして足を踏み込んで
いるわけですから、それと同じでせっかく絶妙のタイミングで湧き出ているのだから後は
ほっとけば良いのです。
湧いてきたら「願望」と呼ばない事です、それは呼吸と同じく
既に実行されているからこそ
湧いてくるのです。PR