今回書いたのを読み返してみると、前回の続きというより前に書いた記事の補足みたいに
なってしまいましたが、毎度のごとく気にせずに続けます。
前回
「願望からの解放」ということを書きました。
願望から解放されると、というか
願望という思い込みみたいのが
消えると、意図となります。
例えば、歩くという行為は意図であります。「歩くにはどうすれば良いのか」とか
考える人はあまりいないと思います。
歩くと、前方の空間が近づいてきます。空間が近づいているだけなのですが、
「歩いている」と認識します。前も同じ事を書きましたが
「歩く」という意図が
生まれたので、それが投影されて前方の空間が近づいてきたわけです。
意図が出てくればソッコーで投影されるので、あとはそれを前回の
「これは夢だと気付いた俺」の意識で眺めていれば良いだけです。
「歩く」という意図が投影されれば空間は近づいてきます、その間に
「今何時だっけ」とか「腹へった」とか思考しても、やっぱり空間は
近づいてきます。夢だと気付いたときに、「ああ、これって夢なんだなあ」とか
思っても夢のストーリーが続いているのと同じです、つまり思考には何の力も無いのです。
「歩こう」と同じように「あれが欲しい」とか「こうしてみたい」とか湧いてきたら、
もう目の前の世界は全部
「意図した事の投影」であります、テレビをつけたら
何故かテレビ埼玉だったとか、深夜アニメを見たら作画崩壊してたとかも全部投影です。
夢に気付けば、
夢は何だかんだありながらも意図したストーリーになっていきます。エゴに惑わされていると、寝ていても気付けない「寝ぼけ」ですが、気付いてしまえば
明晰夢みたいなもので、明晰夢では自分は眺める視点、カッコつけて言うなら
神の視点に
移ることが出来るのです。
この事に気付いてしまえば、
ネガティブ思考もポジティブ思考も、もはや関係ありません。「寝ぼけて」いると「あの野郎ぶっ飛ばしたい」とか「もう死にたい」とかの
ネガティブ思考を「現実である」と捉えて勝手にウンウン唸ってしまいますが、
明晰夢ならどんなにネガティブになろうが関係ありません、何故なら「目覚めれば」
夢の世界に対して思っていたそれらの思考は自分には何の関係も無いし、
何の危害も加えない事がわかりきっているからです。
悪夢を現実と思うからうなされるわけで、「これって夢じゃないか」と気付けば
もはやのんびりと悪夢っぽいストーリーを観ている単なる鑑賞者です。
映画を観ている人が、映画の中でどんなに凄惨な人殺しシーンを見ても
自分に危害は無いとわかりきって観ている状態であります。
人殺し映画など見たくないから何か別のにしようと意図すれば、
観ていれば勝手に変わっていきます。
何故変わるのかというと、あなた自身が
変わったからです。結局の所、何度も書いていますが世界とは自分だったのです。
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