今回は自分でも何書いてるかわからないぐらい
強烈な電波を発してしまいました。
しかし、理解できなくても何ら悩むことはありません。
「こいつは電波人間タックルだ」ぐらいにスルーすればOKです。
で、前回の続きですが
「現実は内面の投影」だと言っても、無意識に見るもの全てに
色々レッテルを貼れば、結局それは真実ではありません。
ですから内面の投影云々というのは
文章にするとそうなるっつーだけで、
実際に体感するというのはリアルタイムでは困難です。
以前の記事でも似たような事に触れましたが、結局は今、受け入れている世界の中で
認識できるものしか見えないわけで、その見えているものに対して色々リアクションを
取っているのが普段の状態です。
で、認識の原点みたいなのは以前の記事でも書いたように、我々が「人間の姿形」と
「人間社会」という世界を受け入れているからこそ、そのような世界で様々な概念を
作り出して、あれが叶ってないだのこれは叶っただの暴れているだけであります。
ですから「真の内面」にたどり着くには、我々が無条件に受け入れている「人間の姿形」と
「人間社会」という「箱庭」を、一旦ロケットで突き抜けなければならないのであります。
つまり
お釈迦様の掌にいるのだと気付く事です。
ここからいきなり話が飛びますが、自分の認識していた「人の姿形をした”私”が居る人間社会」と
いう箱庭世界は、自分が文字通り何の抵抗も無しに受け入れていただけだったのだと気付くと、
その箱庭世界での認識が全て変わってしまいます。
もうエゴは狭い箱庭で喚いているだけの取るに足らない騒音に過ぎません。
今まで不変であると認識していた「人間の世界」が実は不変でも何でもなく、
「ただ単に自分が受け入れたからあった」というだけの物になります。
つまり
「見ている世界」の重要度がどんどん下がっていくのです。
これが世界は不変なのだと思っている時なら、例えば失恋したり何か失敗をやらかした時に
それが大変な事のように思えてしまいます。認識している「人間社会」という箱庭では、
それは「良くないこと」だとされているからです。
箱庭から出てしまえば、もうそんなことはどうでも良いのであります。
箱庭世界の重要度が下がるからというのが大きいですが、
箱庭から出ると、箱庭全体に影響を及ぼせるようになるからです。
箱庭世界は「それを受け入れた自分」が創っただけですから、その「受け入れた自分」が
創った概念で成り立っているとも言えます。
つまり
強引に言えば内面の投影と言い換えることが出来ます。
この辺は非常に文章化するのが困難なのですが、
狭い枠の中で、その枠の中でしか
通用しない概念を用いて「内面の投影でござる」と言ってもそれは本当に単なる概念として
言っているだけです。
枠の中から出る事で初めて「投影」だったのだと気付けるのです。
例えれば東映まんが祭りのキャラクターが、スクリーンから出てきた時に初めて
「自分はこのスクリーンに投影されていたのだ」とわかるような感じです。
今回は簡潔にまとめるつもりが何やらスケールの大きい感じの
理解し難い話になってしまいましたが、
実際気付いてしまうと当たり前過ぎて拍子抜けするかもしれません(当たり前過ぎる事で却って
感動するかもしれませんけど)
まあ東映まんが祭りも
「今年の夏は豪華三本立て!!」とか言っといて実際は
ショボイ番外編みたいな30分ぐらいで終わる奴を三本並べただけってのが多かったんで、
その辺は似てるって言えば似てますね(笑)
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