昨日の続きですが、「調和」とは早い話が
風まかせって事です。
ぴゅーっと風が吹いたらAさんは「寒いなあ」と感じるかもしれませんが、
運動直後のBさんは「涼しいわ」と感じるかもしれませんし、結局各人の置かれた状況で
感じ方が違うわけですね。
本来の我々はこの「風」なのですが、風に対し色々な概念や思考をくっつけていくから
各人が別々の存在に感じるわけですが、本来は風そのものなのですから
我々は一つなのです。
「寒いと言ってるAさんと、涼しいと言ってるBさんと、それを見ている私」というのは
本来存在しないのであります。思考や概念で分断するからいかにも「A、B、私」という三名が
いるかのように感じてしまうだけなんですね。
と言ってもあまりピンと来ないと思いますが、これは思考を思考として捉えない事で
わかります
(多分だいぶ前に同じ事書いてます)例えば「今日は寒い日だ」という思考(心の声みたいの)を単なる音声として認識すれば、
もう「寒い日」は存在しません。同様に「あなたと僕」も単なる音として認識すれば
「あなたと僕」は居なくなってしまいます。
さらに音である、という思考や概念すら放棄すれば
完全に無になってしまいます。
しかしこの「完全な無」を何故か「完全な無」と認識している何者かがいます、
それならばって事でその「完全な無」を認識している何者、という概念すら放棄すれば、
我々が現実世界と思い込んでいる世界はどんどん
”消えて”いきます。
「あれ?でも目の前でウチの飼い犬がいびきかいてんだけど?」と思った方、
見事に「あれ?でも目の前で~」という思考を思考として認識しているじゃありませんか。
思考を認識しないと、嫌でも全ては一つになってしまうのです。
その
一つとしての活動が世界との調和であります。
この辺の話はエゴ視点だと殆ど理解不能だと思われますが、
極論すれば鼻をほじるのもケツを掻くのも「世界」として活動しているのです。
鼻をほじらないと「調和」が崩れるから、ほじっているとも言えます。
そう、その
ハナクソに宇宙が存在するのです。
思考を認識しなければ、「現実世界」と思っているものが崩れていき、
真の「調和」が垣間見える瞬間は必ず来ます
(多分)それは鼻をほじっている時かもしれませんし、ウンコしてる時かもしれませんし、
テレビで研ナオコを見た時かもしれません。
いずれにせよ
一瞬の天啓のような形で現れます。
今回のはちょっとわかりづらい感じになってしまいましたが、
前も書いたように我々は
「思考すること」に何の疑問も持っていません。ですから思考というよくわからない概念を疑ってみることです。
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