昨日の記事を受けて
「シーソーデスマッチを制するのはわかったが、対人関係で
悩んでいるでござる」というメールを頂きました。
昨日も書きましたが、世界は幻のようなものであります。
ですから自分の肉体はもちろん、自分の家も、職場も存在していないし、
友人や恋人も実は存在していません。我々は生まれた時から
無職童貞ホームレスだったのです。
対人関係で悩むというのは、悩みの種の相手が「存在している」と強く意識するからこそ
実際にそこに存在するかのように感じるだけです。
別に存在しようが存在しなかろうがどうでも良いのです、
だって幻だし。いちいち惑わされずに常にシーソーの真ん中でバランスを取るという事です。
バランスを取れば、最適な方向へと勝手に流れていきます、
最適な方向へ行けるのは、ひとえに
バランスを取っているからに他なりません。バランスとは現実(に見える世界)とその世界の裏だか表だか知りませんが、
とにかく普段は知覚出来ない世界、その中間に常に在るような感じでしょうか。
現実(に見える世界)に傾きすぎても色々な事に振り回されてしまいます、かといって
普段知覚出来ない世界を瞑想などで感じても、年がら年中瞑想やってたらオシッコもウンコも
出来ません。
ここで
意図と行動が絶妙なバランスとして湧き上がってくるのであります。
オシッコやウンコがしたくなったら「トイレ行こう」と瞑想を中断してトイレ行くと思うんですよね。
もちろんその場で垂れ流す猛者も居るでしょうけど、一般的にはトイレタイムですよね。
この現実(っぽい世界)と知覚出来ない世界が交わるその瞬間にこそ、真実が隠されています。
この辺はニュアンスが伝われば良いんですけど、願望=実現の感覚はこの
「トイレタイム」の
感じに似ています(かもしれない)
まあ私自身が瞑想とか詳しくないんで、もしかしたら深い瞑想に入ると尿意とか関係無くなるのかも
しれませんけど、その辺は例によって全然気にしてないんで、もしそうだとしても何事も無かったかの
ようにスルーであります。
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