幻上等シリーズが続いていますが、願望の実現っていうのはぶっちゃけて言うと
「満足したい」なんですよね。もっとくだけた言い方をすれば幻を
「好き」になりたいわけです。
「自分」という存在も本来は幻ですから、取りあえず外側の幻を置いとくと、
後は内側の幻、つまり「自分」と思っているものが残ります。
「あれ?でも外面は内側の投影なんじゃ・・・」とか言い出すと話がややこしくなるので
今回は自分=内側、それ以外=外側として話を進めます。
で、いきなり
外側最高!とかになるのは色々葛藤が出てくると思われるので、
まずは「自分」という幻を取りあえず好きになれば良いと思います。
昨日
「やりたい事をやれば良い」と書きましたが、「自分」という幻のおかげで
メシ食ったり歯磨いたり居眠りコイたりと
「その場その場で湧いてきたやりたい事」が
出来るのですから、取りあえずその事に感謝して楽しめば良いんじゃないのという事です。
幻は幻なんだから、
実際は外も内も無いのであります。外側の幻が気に入らないなら
(隣のハゲオヤジの加齢臭がキツイとか)内側の幻(「自分」と思っているもの)に
感謝すれば良いじゃないですか。「待ってください、私は今すぐ高級ステーキが食べたいんです。
でも近所にそんな店無いし、お金も無いんです!」と
悲痛な叫びが湧いて来ても構いません。
前も書きましたが「こんなハゲオヤジを創る俺ってすげえ!」とか
「
悲痛なシャウトしてる俺すげえ!」みたいに自らの驚異の創造力に驚嘆し、
やりたい事をやっている自分を楽しめば良いのです。
外に感謝しようが内に感謝しようが同じ幻に感謝してるんだから同じことです。
牛丼もチーズ牛丼も同じ牛丼なんだから、どちらが好きでも
「牛丼ファン」で
ある事には変わらないのと同じ理屈です。
そうすると、もう残るのは
牛丼への愛しかありませんよね。
スピ系の言い回しなら「世界は全て愛でした」「世界は自分でした」みたいな
どっかで聞いたような台詞が出てくると思います。
もうこうなると、やる事が無くなってしまうのです。
幻を「好き」になれたからです。というより嫌いだの不足だのっていうのは他者との比較や過去の経験からしか出てきませんから、
そのような概念も幻だと気付くと、「好き」になれたというより実は
最初っから「好き」しか
無かったのだという事を思い出すのであります。
奇しくもこのブログでよく登場する牛丼屋も
「すき家」であります。
そう「すき家」は「好きや」であり、あながち「すき家の意志」というのも単なるギャグでは
無かったのです。私は緻密な計算によって「すき家」の正体が明かされるように
長い前振りをしていたのです。
と言うのは
真っ赤なウソです。
PR