願望を抱いて「何々がしたい」と思うのはある意味当然ですが、「したい」と強く思っていれば
常に「したい」という寸止め生殺しみたいな状態が延々と続きます、非常にシンプルです。
ですから「したい」を
諦めちゃえば良いんじゃないの、という事を昨日書きましたが、
諦めろっつーと、もうおしまいだとか絶望ですとかなるのは、
そうなりたいからに他なりません。
つまり願望を諦めても別に絶望しなくても良いのに「絶望です、うわあああ」みたいになるのは
それを選んだからとしか言いようがありません。それこそ大事に大事に
願望というものを
しっかりと握り締めているからです。
お金を握り締めてたって、何も買えません。
レジのオバハンに払わないと商品は買えないのと同じです。
オバハンに「お金を出してください」と言われて「離したくないよ、うわあああ」と嘆いていたら
いつまでも商品は買えないし、オバハンは困ってしまいます。
つまり「握り締めるのを、諦めてください」に対し
「嫌です、絶望しちゃうから」と
返しているわけです。別に誰も握り締めるのを止めたら絶望しますよとか言っていないのに、
何故か勝手にさよなら絶望先生になりたがっているのです。
この辺はちょっと文章で書くのは難しいですが、熱いものに触れたら普通は手を引っ込めますよね、
つまり行動みたいのは勝手に起こるものであり、行動そのものに深い意味はありません。
昨日の草野球の例えでもそうですが、行動が勝手に起こる状況が現れれば、勝手に
行動は起きます。状況に対しああだこうだ批評とかする必要はありませんし、状況に対し
媚びる必要もありません。
あるがままに在るだけです。
簡単に言っちゃえば
条件反射状態が最高という事です。
熱いものに触れて手を引っ込めるのを「でもここで瞑想しなくちゃ」とか「神に祈らないと」とか
無理矢理我慢しなくて良いのです。
我慢して火傷でもすると、今度は「火傷を治すこと」が願望みたいになって
また色々とやり出します。
色んなメソッドを行ったり来たりするのは、まさに
我慢大会のようなものです。
そうなる前に、さっさと手を離してしまえば火傷もしないし、自由になれます。
後は状況に対し在るがままであります。
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