「何もしない」はこのブログでよく出てくる表現ですが、
頂いたメールとか見ると、この表現に
ビビり過ぎている方が多いようだと感じます。
例えば恋人と大喧嘩をしたのに「何もしない」とますます相手を怒らせてしまうのでは
ないかとか、かなりの大金を使ったのに「何もしない」と無一文になってしまうのでは
ないかとか、どうしても今まで作り上げてきた時間軸みたいのを基準として考えてしまいます。
「時間は存在しない」「生も死も無い」「全て幻だ」というのは
今まで勝手に基準としてきたものから離れましょう、というニュアンスで取ると
わかりやすいかもしれません。
「何もしない」という表現に何故ここまで違和感を感じるかというと、
結局の所「何もしないで、何も変わらなかったらどうしましょう」という観念みたいのが
あるわけで、裏を返せば
「変わって欲しくない」のであります。
「変わる事」に猛烈な恐怖を感じているのです。恋人と喧嘩した、「何もしない」ようにしよう、でも明日になってもまだ怒ってたら
どうしよう。みたいな思考だと、結局は「変わって欲しくない」のと同じです。
変わらない毎日があるからこそ、願望実現を追い求める終わりなきレースが始まるのです。
「それは血を吐きながら続ける悲しいマラソンですよ」と言ったのはウルトラセブンに
変身するモロボシ・ダンですが、まさにこの言葉がピッタリであります。
もうちょい表現を変えて言うと
「ある特定の願望が生まれた時点の時間軸」みたいのを
変えたくない、変える事への漠然とした恐怖があるという事です。
例えば財布落とした、無一文だ、財布が戻ってくる事を願う、だと
「財布落とした」から始まる一連の流れみたいのが
”居てくれないと”願望実現が出来ません。
「何もしない」「全部幻でした」「生きるも死ぬもクソも無い」はこの時間軸を捨てさせるための
表現というか、悪い言い方すればこじつけみたいなもんですが、
この「時間軸」を捨てるのには、猛烈な恐怖が襲ってきます。
ですから「財布落とした、戻ってきて」という時間軸を大事に抱きしめながら
「何もしない」が良いらしいとか「ナントカメソッド」が良いらしいとか
色々やってしまうわけです。大事に抱きしめてるっつー事は、結局は
変わって欲しくないからと
いう観念と、変わってしまう事への猛烈な恐怖が原因です。
ですから変わりたいのであるなら、一連の願望実現ストーリーを形作っている
時間軸そのものすら
ほっぽり出すことです。ほっぽり出せば、変わります。というか形作っているものが
無くなるので、変わらざるを得なくなります。最初はものすごい不安と恐怖に襲われるかも
しれませんが、試しにやってみる価値はあります。
昨日
「第一部は終わりました」とか言っといて、
いきなりわけのわからない記事を投下しましたが、
これからの更新頻度は下がる予定です。
そうしないと本当はヒマな事がバレちまうからです。
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