「何もしない」事は何故ここまでに恐ろしく感じるのでしょうか、
多くの人が「何かしなければならない」という
強迫観念に近いものを持っています。
スピ系の知識を
持つほど理屈をコネくり回し始めるので、厄介と言えば厄介でもあります。
「完璧だから」「何もしない」、「愛しかないから」「何もしない」、
「どっかのオッサンが書いていたから」「何もしない」
これは理屈で言えばその通りですとしか言いようがないのですが、結局は理屈は理屈です。
「何もしない」っつーとまずやろうとするのが「何も考えない」「動かない」といった事だと
思います。しかし結局は「何も考えない」とか「動かない」というのも、
大げさに言えば人間という生き物だからそれらを思いつくわけで、
人間じゃなかったら出来ません。つまり人間という生き物の範疇に居る以上、出来る事は限定されるのです。
「何もしない」は
「人間として、何もしない」という前提条件がある事に気付くべきです。
「人間として、何もしない」が無意識に前提条件にある以上、次にやる事は決まっています、
その前提条件を強化するための理屈付けです。
つまり「何もしない」どころか「色々やりまくり」なのです。
で、「全て完璧だからどうのこうの」だの「全部を愛して恋してうんたらかんたら」という
どっかで聞いたようなフレーズとして出てくるわけです。
まあ文章で書けってなるとそうならざるを得ない所もあるんですけど。
前も書きましたがそれら無意識の前提条件は、全て勝手に創った枠組みであります。
この枠組みを外し、「何もしない」ではなく
「何も出来ない」事に気付く事です。
「何も出来ない」のだからもう流れに乗るしかないのです、何も出来ないくせに
ああだこうだと「何か出来るはずだ」と
安心するために理屈をコネ回してもしょうがありません。そんな事をしても待っているのは絶望だけであります。
ボートはボート自身では何も出来ません、水があって川があって漕ぐ人がいて初めて
動けます。ボートが「俺は動けるのだ」と勘違いする事から悲劇が、あるいはある種の喜劇が
始まります。全ての枠組みを外して自由になりましょう。
必死にボートを漕ぐより、
ボートそのものになって流されている方が楽です。
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