スピ系の情報はネットの普及により文字通り溢れんばかりに有りますが、
多くの知識を詰め込んでも
クソの役にも立たないのがスピ系の特徴(?)でもあります。
結局はこの手のものは自分自身が
「それ」にならなければ本来の意味は伝わりにくい所が
あります。ブログや書籍だと、どうしても伝える人と伝えられる人という分離を前提として
書かなければならないので、結局は情報の受け手側が気付いていくしかないと言えば、
やはりそれしかないのであります。
例を挙げれば、
すき家について膨大な知識を持つ人と、すき家になってしまった人では
雲泥の差があるのです。この「なってしまう」がポイントなのです。
そのためには前回も書きましたが、分離を生み出す「私」の正体を見抜き、
「私」と「すき家」ではなく、「すき家」しかない世界を垣間見るしかありません。
が、しかし。ここが文章で書くと難しい所なのですが、「なってしまう」という表現だと
今度は
「やはり私がなるのだ」と思いがちです。
そうではなくて
最初から「なっていた」事に気付くという事です。
「なっている」事が前提で「私はまだすき家になってない、それどころか吉野家にもなってない!」と
嘆くのは順番が逆です。
どうして世界が自分にならないのか、それは「私」が理屈付けを止めないからです。
じゃあ
何で理屈付けをする必要があるのか、何のために?そこにポイントがあります。
PR