前々回の記事の扇風機の例えで、扇風機が「風を出している」と思っているのは
単なる勘違いである、という事を書きました。
これは昨日の記事の
「自由意志が無い」という話にも繋がっているのですが、
前も書いたように扇風機は空気が無ければ風は起こせませんし、電源が抜けていれば
動きもしません。
ここに
扇風タロウと扇風ジロウという二人の扇風機ブラザーズが居るとします。
二人は常にどちらが強い風を出せるか競争していました、結果は五分五分でした。
タロウもジロウも必死に羽を回し、ナントカメソッドを研究し、今日も熾烈な競争を
続けていました・・・が、結局の所彼らの風の強さは電源が入っているか否かだけの話です。
タロウの方に電源が入っているときはジロウはどうやっても勝てませんし、逆もまた然りであります。
しかしタロウもジロウも
自分達の意志で風を出そうと頑張っているのだと
思い込んでいます。
もうおわかりと思いますが、タロウもジロウも自由意志は持っていません。
彼らの行動の結果は
全て電源次第です。この電源がスピ系で言われる
「神」であります(もちろん
このブログの読者なら「神」の部分を「すき家」とか「松屋」にすべきです)
この「神」に目覚めるとどうなるのでしょうか?
それは扇風タロウも扇風ジロウも
いなくなってしまうという事です。
何故なら電気を供給している電源から見ればタロウもジロウも
同じ扇風機です、
タロウとジロウはお互い別のもの、別の個人と思い込んでいますが、電源から見れば
別の個人という感覚はありません。つまり、この感覚が
世界は自分に繋がるのです。
全ては電源次第であるなら、いちいち今日は風が出ないだの、もっと頑張ろうだの羽を掃除しろだの
考えなくなってしまいます。「今日は調子悪い、もっと頑張らねば」 これは自由意志が
あると勘違いしているから思うわけで、電源が入ってなければ調子もクソも頑張ろうもありません。
電源入ってないんだから動くわけねーじゃん という事です。
そこにはタロウの意志もジロウの意志もありません、というより生じる余地がないのです。
意志が無いという事は「頑張ろう!」と思っている扇風機ブラザーズは
最初から存在しなかったのです。全てはエゴが演出した幻でした、そして幻に気付いた瞬間にエゴも消えてしまうのです。
ここまで読んで「そ、そんな・・・自由意志が無いなんて・・・。
じゃあ私はいくら頑張っても電源が抜けた扇風機のように回らないのですか、
人生は最初から最後まで一本道で終わるゲーム、
最近のファイナルファンタジーの
ようなものなんですか」と、思っている方もいるかもしれません。
しかし、上記の考えはまさしく自由意志があると勘違いしている典型です。
自由意志があると勘違いしているから「どうすればいいんだ」という
束縛から逃れられないのです。
自由意志という思い込みに縛られていると、いつまで経っても「私は~」とかの
「個人」という
縛りから逃げられません。
自由意志が無い、という事に気付くからこそ「個人」という幻想を破った
「本当の私」
「真の自由」を獲得できるのです。
それでも「私の願いはどうなるの!?」とか「FFはファイナルファイトの略だろ!」とか
色々騒ぐと思いますが、その雑音は
勝手に起こっているだけで「本当の私」とは
何の関係も無いのです。
だって
騒いでいる個人はもういないんですから。雑音から自由になったのです。
スピ系の本でよく「願望を手放す」とか「リリーステク」とか書いてあるじゃないですか、
これでもう手放せましたね、おめでとうございます。
PR