ここ数日は、自分は実はいないのでござるの巻が続いていましたが、
読者の方からのメールで
「それって願望の実現と関係あるんすか?」という
痛い所を突かれたメールを頂きました。
結論から言うと、関係あるといえばあるし、無いといえば無いと言えます。
何故なら願望を叶えようとしている人が、
いないからです。結局の所、今まで「自己」であると思っていた「自己」は偽りである、と知る事は
オートマモードで運転するという事であります。
自己が無くなると、勝手に様々な事が湧き上がっては消えていく感覚になります。
エゴから見れば「願望」と呼ばれるものも湧き上がります。なんで湧き上がるのか、とか
考えても無駄です。湧き上がるものはしょうがないという事です。
さて願望が湧き上がったとします、ではどうするのか?
思いきりぶっちゃけた言い方すると、
もうそれでおわりです。あとは神の意志でもすき家の本社でも松屋の厨房でも何でも良いのですが、
それらが(というより「本当の自分」なんですが)勝手に話を進めていきます。
で、ここで珍しくメソッド的な事を書きますが、「本当の自分」に気付くためなら、
あんまり具体的に願望をこれこれこうでどうのこうのと
細かくやらない方が良いと思います。
彼女にしたい女性は若いネーチャンで、スリーサイズはこれぐらいで、合体の相性も
最高じゃなきゃヤダとか、あんまり
わがままを言うなっつー事ですね。
「本当の自分」に気付いていれば、それらのわがままは単なる
そこに在るものとしてしか
見ませんが、エゴが眠っていないとそれらのオネーチャンの条件に色々とさらなる注文を
つけてくるからです(つまり
エゴが「願う」という行為を行おうとするわけです)
ですからとりあえずシンプルに、
「願う」んじゃなくて「湧いてくる」のを見つめましょう。
そしてここから先はもう体感の話になってしまうのですが、前述した願望を叶えようとしている人が
いない、という事は
願望が叶ったと確認する人もいないという事でもあります。
度々書いていますが、後になってから「ああ、そういえばあの時こんな事を願ったっけ」という
感じになっていくのです。
ですから今までの「自分は実はいないでござる」が願望実現と関係あるのか、と言われれば
結果的には関係しているが、直接的には関係していないと言えます。
PR