私が競馬とか好きなんで、自然と周りにギャンブル好きな連中が集まるわけですが、
彼らを見ていて面白いのが
「お金を儲ける事」よりも、
何故か
「自分の賢さや、勘を誇示する事」が優先になっている事です。
例えば競馬ではありませんが、知人Aがこの前某社の株を買おうとしてたのですが、
結局彼は購入を見送りました。
で、購入を見送った次の日にその会社の株価は下げに転じたわけですが(でもその次の日に
すごい上がった)何故か彼はその事を「損失を回避した俺ってすごいだろ」的な
ドヤ顔で言うので、ただ単にビビッただけじゃねーかボケとドヤ顔に右ストレートを
お見舞いしてやろうかと思いました。
そもそも彼の目的は株を買って利益を出す事が目的だったはずなのに、
散々迷って結局適当な理由で自分を納得させて、俺ってすごいでしょみたいな事を
言い出すのはおかしいのであります。
これでは利益を出したいのか、
「損しなかった俺つえええ」がやりたいのか、
よくわかりません。
俺TUEEEがやりたいなら株を買わなければよろしい。
結局これは
「己の意志で選んだ事を否定されたくない」という自我の防衛手段に
過ぎないのです。
少し話が飛びますが、雨が降ってる時に「何故雨は空から地面めがけて降ってくるのか」と
文句を言う人はあまり居ません。雨が降って来るままに任せているはずです。
永遠に上がり(下がり)続ける株価は既に株式市場では無いし、買った馬がいつも
ブッチギリで、あるいはいつもビリで走ってくる競馬も競馬ではありません。
つまり雨が降ったり止んだりするのと同じで、上がったり下がったり、
馬が勝ったり負けたりなんて当たり前で、それが正常なんですが、
何故か前者に対しては何も文句を言わないのに、後者に対しては
文句を言い出すのが自我の面白い所であります。
前述のように「己の意志で選んでいて、それを否定されたくないから」というのが
自我の言い分ですが、そもそも己の意志なんて無いのです。
ギャンブルに参加した時点で選択せざるを得ないわけで、
簡単に言えば車に乗ってて目の前に分かれ道があったら、右か左のどっちかに
ハンドルを切るしかないのと同じです。
「何故俺は右にハンドルを切ったのか」とか言った所で、そんな事
分かれ道が
あったからに決まってるじゃないですか。
分かれ道に文句を言っているのならまだしも、ハンドルを右に切った事に対して
「右に切ったけど、でもこれこれこうだったから俺は正しい、賢い」とか
言った所で無意味です。ハンドルを切る事が正しいのであって、別に誰も手前の
賢さとか正しさなんて聞いてません。
分かれ道があり、どちらかにハンドルを切る事が確定しているのだから
素直に切れば良いのです。こうあるべきだとか何でこうなんだとか
分かれ道に文句言った所で何も始まりません、宗教っぽく言えば
神の意志に
逆らった所で何も出来ないのですよ。
だったら分かれ道を用意してくれた神に感謝してハンドルを切れば良いだけです。
すき家に入って牛丼がどうぞお食べ下さいと出てきたら、普通に食べて、代金を払うのが
まさにすき家の意志と一体となる事であって「金を払わず店を出る俺はカッコイイ」とか
やらなくて良いんですよ、そりゃただの食い逃げです。
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