スピ系の本などを読んでしばらく経つと、結局何も変わらんとかやっぱしダメだとか
何だかんだ思い悩む人が結構いるようですが、これは
エゴが納得する理由を
探そうとし出すからです。
別にエゴを納得させる必要はありません。
しかしどういうわけか
エゴを納得させる事に必死になってしまう事が多いようです。
こうなると「願望を叶えたい」が「エゴを納得させたい」に
いつの間にかすり変わります。そして「エゴを納得させるために」新たなメソッドを追い求める事になってしまいます。
エゴを納得させるために何かやるというのは、結局のところエゴのために働いているのと
同じです。
この事に気付くと何が起こるかというと、何もしなくなってしまうのです。
ここでいう「何もしない」は全く動かないという事ではなく、
エゴのために働かなくなるという
事であります。
もちろんトイレに行ったりご飯を食べたりは当然「して」います。
しかしそこには既に
「行為者」がいないのです。何故なら「私が~をしている」は
エゴの視点だからです。
「私」がいなくなると
「している」しかありません。
牛丼から「牛」がいなくなると「丼」しかないのと同じです(?)
行為だけが、そこに在ります。
「している」だけが在ります。
誰が?知りません。 まさに湧き出ているだけです。そしてこの「湧き出ている」という表現も、結局は思考の後付に過ぎません。
思考が止まってしまうと、以前も書きましたがどんどん
世界が抽象的になっていきます。
思考を使って意味や概念を貼り付けて具体化するわけですから、それをしないと嫌でも抽象的に
なってしまいます。
そして抽象化の果てに源泉、すなわちあなた自身を観るでしょう。
ずっとドアが閉まっていると思って叩いていたら、何の事はない。
最初から開いていた事に気が付くのです。PR