俗に言う「寝ぼけ」は脳が眠っていて体が起きている状態だと子供の頃に
教わりましたが、
エゴも寝ぼけのようなものです。
我々が見たり聞いたり感じたりしてるものは、全てエゴが勝手に解釈しているものです。
例えば
「エゴ」という文字を見て、カタカナを読める人なら「これはカタカナであり
エゴと書いてあるのだ」と判断すると思います。
「エゴ」と書いてあるのを見て
「すき家」と読む人は恐らくいないでしょう。
しかし、「これはカタカナだ」という認識も、過去に学校でカタカナを習ったから
そう思っているわけで、カタカナを全く知らない異国の人とかだったら
「文字っぽいもの」とか
もっと言えば
「黒い棒の絵」としか思わないかもしれません。
さらに文字という概念や文化に全く触れたことのない、狼少年ケンみたいなのだったら、
もしかしたら視覚的に認識すらしないかもしれません。
何が言いたいかというと、我々を取り巻く概念や思考は
全部後付だということです、
本当の自分は概念や思考を超越した存在です。
しかしエゴによって「これはこういったものである」とか「良い感情」「悪い感情」とかを
勝手に区別してしまっているのです。つまり
居ないものを居るとみなしてしまっているのです。
寝ぼけてるとなんでもかんでも幽霊や宇宙人に見えるのと同じです。
「寝ぼけて幽霊を見た」と「エゴという文字を見た」は
同義という事です。
ですから、まず今まで「居る」「在る」と思っていたものが「全部無かった」という事に
気付きましょう。これは文字通り
「全部無い」です。エゴ視点での自分すら「居ない」のです、
我々は最初から生まれてなんていなかったのです。「今までの”私”だと認識していたものが全部無いだって?じゃあ私は何処に居るんですか?」と
思うかもしれません。確かに
エゴ視点での「私」は存在しません。それは寝ぼけて、そこにいるはずのない幽霊を見ているのと同じです。
しかしです、呼吸を感じようと思えばそこに
「呼吸を感じている私」が居ます。
壁にある時計を見ようと思えば
「時計を見ている私」が居ます。
このブログを読もうと思えば、
「読んでいる私」が居ます。
一瞬一瞬に、まさに刹那的に「色んな私」が現れては消えているのです。その事がエゴによって寝ぼけて認識できないから、それらの「私」が連続して続いていると
誤解し、「時間」という概念を作り出してしまっているのです。
”私”は
「何処にも居ないけど、何処にでも居る」のです。
それに気付くことが、「寝ぼけ」から「目を覚ます」事であります。
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