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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「いつもスピ系のブログを見て”わかった!”と思うのですが
結局一瞬だけで元に戻ってしまいます」というメールを頂きました。

これは簡単に言えば特定の対象と同一化しているからです。
鏡に映った自分に「お前は誰だ?」と問いかけ続けると自我が崩壊してキチガイになる、
という話を聞いたことがあるかもしれませんが、キチガイになるかどうかは
置いといて、鏡に映った人物と意識が同一化するから「私」が生まれるわけですね。

ですから鏡に映った人物と意識が同一化するのと同じで、この場合は
”わかった!”という心の声と意識が同一化しているのであります。

大体、心の声って自分にも音として聞こえていないのに何故か”自分の声”と
認識
していますよね。ですから意識と同一化した心の声が”わかった!”
言った所で、”わかった私”が出て来てしまうので堂々巡りになるのですよ。

仮に”わかった!”という心の声が子門真人の声だったら恐らく”私はわかった”とは
ならないはずであります。

ですから心の声との同一化もやめれば、果たして思考や感情とは一体誰のものであって、
何なのか。そもそも思考や感情と同一化するものは存在するのだろうか、
それは今まで存在すると固く信じていただけで、実は存在しないのではないだろうかと
いう事が見えてくるのです。

”わかった人”なんて最初から居ないんですね。








若い人はマサトと言えばK-1の魔裂斗かもしれませんが、私が小さい頃は
マサトと言えば子門真人だったのですよ。
ちょっと検索してみたら子門真人ももう70過ぎだったんですねえ、
私も歳を取るわけだ。
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全ての悩みや苦しみは「私の」という概念によって始まるのが殆どです。
「私の鼻は何故低いのか」とか「私は何故貧乏なのか」とかですが、
真に手放すというか執着を無くすのは「私は」や「私の」が完全に消える事が
肝要であります。

「花は何故咲くんでしょうか」とか「太陽は何故東から昇るのか」だと
詩的な感じもしますが、ここに「私の花は何故咲くんでしょうか」とか言い出すと、
途端に「私の鼻は何故低いんでしょうか」と同じようなお悩み相談になってしまいます。

花が咲くのは、ただ単に咲くだけであって、鼻が低いのはただ単に鼻が低いだけであります。
この前もゲームの話をしましたが、「マリオは何故帽子を被っているのか」というのは
「そういうものだから」に過ぎないのです。
ここで「帽子を脱げ」と言い出すからおかしくなるのです。

帽子を被った状態のマリオがプログラム上で完璧なのですから、
そこに帽子を脱ぎやがれと言い出せばプログラムは正常に動作しなくなります。
つまりバグった状態であります。

「私の」「私は」どうたらこうたらは、全てバグです。
バグった状態なのに、バグに気が付かずに暴れているからややこしい事になるわけですね。

別の表現に言い換えれば、花が咲くことを邪魔しているのと同じです。
花が咲くのはそういうものなんだから、余計な事をせずに咲かせてやれば良いのです。

「私」が居ないと世界は始まらないような気もしますが、実は「私」なんて最初から
居なくて、世界は始まりも無ければ終わりも無く、ずっと在ったのであります。

いかに今まで無数のバグでゲームの進行を妨げていたかを知るでしょう。
私の知人が任天堂の株が6万円だか何だかの時に買ったそうなんですよ。
当時は任天堂絶好調で、そいつはまだまだ上がると思ったそうです。

で、今は任天堂の株って1万円台まで落ちてるそうなのでm9(^Д^)プギャーとか
やってたんですが、何かここ数年の任天堂ってパッとしないですよね。

パッとしない原因はWiiUが売れてないからだと思いますけど、
あれってゲーム好きのいとこのガキも欲しがらなかったんですよね。
3DSではよく遊んでますけど。

私もファミコンブーム直撃世代のオッサンゲーマーですが、WiiUは友達の家で
マリオカートをちょっとやって、買うのはパスしました。

あれねえ、タブレット型のコントローラーがデカ過ぎるんですよ。
結局普通のコントローラーでやるのが一番良いという結論になってしまうんですね。

オッサンゲーマーとして言わせてもらうとですね、そもそも任天堂のハードに付いてる
ギミックってそれ無しではゲーム自体が成立しない、面白くないってものだったんですよ。

例えばNINTENDO64のコントローラーに付いてた3Dスティック無しの
スーパーマリオ64なんて考えられなかったし、Wiiリモコン無しでWiiスポーツとか
普通のコントローラーでやっても何か悲しいだけでしょう。


しかし、タブレットコントローラーがあっても無くてもマリオカートやピクミンは
特に問題無いっつーのが、WiiUのコンセプトが既に破綻している証拠だと思います。

ゲームソフトありきじゃなくて最初にハードありきでやっちまった感があるんですねえ。

で、いきなり話をスピ系に強引に持っていくとですね、
結局の所、展開している世界は全て意識に映し出されているものなんですね。
なのでまずその世界が破綻しない事が第一なのであります。

しかし自我、思考は世界に対しああでもないこうでもないと喚き出すので、
ここで苦しみだすのであります。
なので、自我は影のように実在しているように見えるけど、実在しないものである事を
知るのが肝要なのです。

そうすれば、ゲームの世界のように全ては勝手に動きます。
ここでやるべき事はゲームの世界のキャラのように”ただ在る”事だけです。
というか、ただ在る事しか出来ないのですよ。影は自分の意志では動けません。
自由意志があると勘違いしているかもしれませんが、影だけが動く事は無いですよね。

つまり在る事が意識の目的と言うか、イコール意識の証明のようなもので
それ以外は無いのであります。

ここで本当の意味で自分が居なくなり、世界だけになります。
夢の中の自分も意識に映し出されているだけなのと同じで、現実と思っている自分も世界も、
意識に映し出されているだけです。

そして色々と思い悩む自分、苦しむ自分は消えるのであります。
ゲームの世界から見れば自我や自由意志を主張して喚いているバグが無くなったのですから、
後はもうお任せなのです。








またゲームの話に戻りますけど、WiiUってWiiリモコンとか普通のタイプの
コントローラーとか全部別売りなんですよ。
結局色々ゲームやろうとすると、周辺機器でゴテゴテしてくるのは避けられないっぽいのも
マイナスですね。

そういうゴテゴテ感があるのも、何かWiiUって今の任天堂のエゴを象徴しているような
ハードですねってのは言い過ぎでしょうか。
私の家の近所に住んでる話好きのジジイが共産党支持者なんですよ。
会うと無視するわけにもいかないので世間話をするわけですが、
いっつも「共産党最高や!」的なノリで話をしてくるので、とりあえず自民党を
支持する私とはどうもウマが合わないのですが、全共闘世代はキレると怖いので
適当に話を合わせています。

昨日の記事でも同じような事を書きましたけど、共産主義にしろ何にしろ思想というのは
文字通り自我の中心みたいなものですから、思想からも離れるってのは難しいですよね。

最終的にはスピリチュアル的な思想からも離れ、朝起きてメシ食ってウンコして
風呂入って寝るというルーティンを繰り返すだけの普通の人になる事が
ゴール(?)だと思います。

でもそう言うと「じゃあ私の人生どうなるの」みたいになると思いますが、
既にその時点で”私の人生”を妄想し、それが中心になってしまっているんですね。

スピリチュアルから離れるのはとても難しいです、それが私を守ってくれる的な
中心となってしまうからです。
しかし、最終的にスピリチュアルに触れた者はスピリチュアルを殺す時が来ます。
それが出来た時に本当に解放され、あらゆるものが己の一部であり中心となるでしょう。

守るものなど最初から居なかったのであります。









まあ実は今朝もそのジジイと世間話する羽目になって、政党助成金を貰っていない共産党が
いかに素晴らしいかを一時間も聞かされていたわけですけど。

だがちょっと待って欲しい。
赤旗が官公庁に置かれているという事は、税金で赤旗を購入しているのではないだろうか。
政党助成金や企業献金を受けていないと言っても、これでは税金泥棒と言えるのではないか。
共産党は国民の税金をどう思っているのか、真摯な説明をして頂きたい。

なんて事を言いたかったのですが、やはり全共闘世代はキレると怖いので黙ってました。
執着というものは基本的に何を中心に据えているかで決まります。

例えば、何かをしたいと思ったとして「絶対大丈夫だ」と思うか、
「世界は私であるから出来ても出来なくても構わない」と思うか、
あるいは「世界は幻だから何かを出来る出来ないなんて最初から関係無い」
思うかとか色々ありますが、これらの思考はどれも”何かをしたい”が中心と
なっています。

つまり「絶対大丈夫~」も「世界は幻だから~」もただ単に表現を変えているだけで、
実は何も変わっていません。

これでは世界は私だとか何だとか言った所で結局は漠然としたイメージから抜け出ていません。

もう少しわかりやすく言うと、ある人が「お金が無くても大丈夫だ」「世界はお金だから
あっても無くても構わない」
「お金は幻だから最初から存在しない」と言った所で、
この人は「お金」が中心になってしまっていてそこから一歩も動いていませんよね。

執着を無くすとは、中心を持たないという事であります。
中心を持たないからこそ、逆に全てが中心となるのであります。

全てが中心になるという事は、思考が自然と止まるという事でもあります。
偏った中心があるからそれを土台として思考が始まるわけで、
それを無くしてしまえば良いのです。

”思考を止めよう”とすると、それが中心となってしまいます。
ですからそれすらも放棄すれば、我々は全体にして一部であり、一部にして全体である、
という事がわかるのであります。

それが何処にも偏った中心が無い状態、全てが中心であって、中心でない状態なのです。

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