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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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今回はどうでもよいつぶやきみたいなモンですが、
「自由意志」が無い、という事に対して非常に恐怖を感じて
うわあああああみたいなメールを送ってくる方が
今だに結構いらっしゃるのですが、正直言うと何が恐いのか不思議であります。

夢を見ている時だって、夢の中では自由意志はあると思って
行動しているはずですよね?
でも夢は存在しないのですから夢の中の自分も存在しないし、
夢の中の自分が持っていると感じていた自由意志も存在しないわけです。

何故これについてはうわあああああとならないのでしょうか、
自我や思考からどうしても離れられない場合は、
その辺に探求のヒントがあると思います。

「いや、現実世界だからです」と思うかもしれませんが、
夢の中でも現実世界と思って自由意志に基づいて行動していたわけですから、
結局は同じことなのです。
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スピ系でよく言われる思考や感情を観察する、というのは結構簡単に出来るもんです。
何かを感じれば「ああ、怒ってるわ」とか「喜んでるぜ」とか、”観察者”になれば良いだけですから
かなりお手軽ですよね。

”観察者”は感情や思考を沈めるのには便利なメソッドであります、
「観察する者」「観察される対象」が存在するので分離は無くなりませんが、
自我は静まるのでとにかく落ち着きたい人にはお勧めであります。

今回はこの「観察する者」と「観察されるモノ」の垣根も取っ払っちまおうぜ、というお話です。

まず何故に”観察者”が存在できるのかというと、当たり前ですが「観察の対象」が
存在するからであります。

我々は普段あまりにも感覚を通して何かを経験する事に慣れ過ぎています、
感覚を通して心で判断し、そして自我が現れます。
こうして自我が世界を舞台にしたゲームに参加するのであります。

”観察者”は判断した事を観察する者です、つまり自我の動きを見つめています。
結局は”観察者”も分離の産物なのです、その正体は形を変えた自我そのものです。

自我は生き残るために「自らの動きをあえて見せ付け、本来の自分に気付かせない」という
露出狂のオッサンもビックリの戦術に出たのであります。

前述したように感覚を通しての判断は、あまりにも当たり前過ぎるので何も疑問にすら
思いませんが、これ自体が既に分離であります。

全てが自分なのに「感覚を通して」世界を観る事は既に本来の自分から離れているのです。
感覚という道具を使って世界を観るという事は、その道具の使用者がいるはずで、
これでは”観察者”と同じく分離した概念になります。

世界は自分なのですから観れるものではありません、眼球をグルグル回しても眼球自体を
観る事は出来ないのと同じです。つまり最初から我々は本来の自分であり、
「感覚を通して世界を知るのが当たり前」といった思い込みが視界を曇らせていたのです。

この”最初の分離”みたいのに気付くと、観る者と観られる者の垣根は崩壊します。
観る者は観られる者でもあり、そして感情も思考も本来の自分に飲み込まれ、消えていきます。

感覚も心も自我も、海から生まれた波と泡粒や水滴のようなものでした。
海から見れば、それらは存在しないのと同じです。

もう少しわかりやすく言うと、例えば風呂をかき混ぜると波や渦巻きや泡粒が発生しますが、
「それらは風呂では無い」と言うでしょうか。
何が発生しようと風呂は風呂なのです、バスクリンの入れ過ぎですごい色になっても
風呂は風呂です。

渦巻きや泡粒が「風呂とは別個の存在として在り、しかもそれこそが私だ」という勘違いから
全ての悲劇(喜劇)は始まったのです。

母なる海(風呂)は最初から穏やかにそこにあったのです。
読者の方からメールで教えてもらったのですが、
手から粉を出すアフロのオッサンと言えばご存知「サイババ」ですが、
何とこの「サイババ」は複数人存在するそうなのです。

そもそもサイババとは「聖なるオヤジ」みたいな意味で、
ある種の称号(?)みたいなものらしいです。
で、アフロの粉吹きオヤジは「サティア・サイババ」という方で、
他にも「ナントカ・サイババ」は各地にいるのだそうです。

これはちょっと宗教に詳しい人なら当然過ぎる事実だったかも
しれませんが、私はこの歳になるまで全然知りませんでした。
まさかサイババが仮面ライダー龍騎Gガンダムみたいな
世界観だったとは驚きです。

というわけで私も今日からシラン・サイババを名乗ろうとか
思いましたが、そんな事したら間違いなく天罰が下るので
やめておきます。
スピ系だと執着を無くすとか何だとか言いますけど、
執着は渇望を生み苦悩を生み出す元であります。
だったら執着なんてしない方が良いんじゃねって事です。

と言っても執着を捨てようとかって無理、と感じる人も
居ると思いますが、実は一切の執着が無い状態に簡単に入れる
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というのは冗談で、一切の執着が無い状態、それは熟睡している時です。
熟睡している状態で、願望だ悩みだ何だと執着はしません。

以前も書きましたが、起きている時、夢を見ている時、熟睡している時は
全て同じです。熟睡している時は執着しないのに、起きている時だけ何故か
執着するという事は、その執着は幻という事であります。

執着が確固たる本物、その執着は私であると言うなら
熟睡してても執着していなくてはなりません。
しかし熟睡すると消えるものは、どんなに熱望していようが
愛していますとか唱えていようが、その程度って事です。

つまり自我が認識している殆ど全てがその程度の価値しかない、
これは逆から言えば本来の自分からすれば「あらゆるものに執着しない」
状態がデフォルトであるという事です。
そしてそれは既に満たされた至福が本質であるという事でもあります。

前も書いた「行為ではなく状態」とはこの事でもあります。
こうなってしまうと、もはや抵抗も執着も無く、望んだものは
勝手にやって来ます。望んだものというと語弊がありますが、
勝手にやって来るモンはしょうがないって感じです。

しかし、もはや「満たされている」ので自我が喜んだりはしないのです。
というより、満たされた本質に気付いた時点で幻である自我は
文字通り幻に帰るので、喜ぶ者は何処にも居らず、ただ本来の自分が
在るだけ
なのです。
覚醒体験とか至高体験とかよくありますが、これも昨日の話の流れで行くと、
体験者(経験者)の立場からだと結局は足かせみたいになると感じます。

こういった体験は私自身もかなり前の記事とかでちらっと書いてますし、これ以外にも
何だかすごい体感と感動を伴う体験みたいのはある事はありますが、
こういった体験ってスピ系に興味のある人からすると「すごい、素晴らしい」って
なるかもしれませんが、まるでそういうのに興味の無い私の彼女みたいな人から
すると、「モルダー、あなた疲れてるのよ」みたいな一言で終わりだと思います。

数年前、至高体験ぽいのを感じた後に彼女にその事を話したら、
彼女は黙って精神科の病院を検索し始めました(マジで)

ここで私が「病気なんかじゃない、これは人類の新たなステージへのアセンションで
何たらかんたら」と言った所で興味の無い人からすればキ〇ガイの戯言なわけで、
やはり「経験者」は「経験」によって傷付けられるのです。(このブログなんて全部戯言だろ!
という的確なツッコミはこの際無視します)

まあ私の場合は別に覚醒でも何でもなくリアルで病気だったか、単なる飲み過ぎ
だったんでしょう。

どんな経験にせよ経験を特別視するのは、経験と経験者という分離を起こすので
変にそういったものを求めるのは、ある意味デンジャラスなのではないかとも思います。

結局どんなに素晴らしいビジョン、感動が湧き上がっても、それを見ているという事は
既に分離
なんですよね。

私の場合は「あるべきものが、やっぱりそこにある」というのを実感した時が
ある意味一番感動したんですが、気付きというものは大変にシンプルなのかもしれません。
まあ偉そうに言えた義理じゃないですが。

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