忍者ブログ

知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

HOME • Admin • Write • Comment
今回は全く面白くも何とも無い日記ですが、そろそろ老後の趣味を持とうかと思っていた所、
何故か急に中野浩一を思い出し、私も自転車海苔にでもなってみるかと
スポーツサイクルの専門店に行ってみました。

ロードバイクはさすがに敷居が高い、というよりあの派手派手しい
いかにも自転車海苔というコスチュームがなんか鬱陶しかったので
もう少し気楽に乗れるクロスバイクを取りあえず買う事にしました。

私「クロスバイク買いたい」

自転車屋の兄ちゃんが色々と説明してくれましたが、
私も大して人の話聞かないタイプなんで、わかったふりをしながら
「軽くて速いの頂戴」と言った所、兄ちゃんがカッチョいい海外メーカーの
クロスバイクを出してきたので即決。

スタンドやらライトやら鍵やら専用の空気入れやらも一緒に買って
大体18万ぐらいでしたが、クロスバイクって思ってたより安いんですね。

で、乗ってみたら速いの何のって。
今までママチャリしか乗った事のない私はちょっと感動しました。
このまま行くと公道最速を求めてロードバイクも買ってしまいそうです。

もしも大宮周辺でチャリンコで爆走してる変なオッサンを見かけたら
私だと思ってください。
PR
だいぶ前に書きましたが、私は学生時代にボクシングやってたんですよ。
ボクシングに限らず格闘技って皆そうかもしれませんが、基本的に試合してる選手同士に
平等に時間は流れてないんですよね。

単純な例だと、キレのあるジャブとかをパッパッと出されてブロックするのがやっとの場合、
ブロックするほうはブロックの動作だけに必死に時間を費やしますが、
ジャブ出してる方はそのままジャブを出し続ける事も出来るし、
フェイント入れたりサイドに回ったりと選択肢が多くなるんですよね。
つまり片方がブロックという一つの動作を仮に1秒間で行うのに対し、攻めてる方は
同じ1秒でもその間に様々な動作を選択できる、時間を贅沢に使えるわけです。

まあこれ以外にも色々ありますけど、様々な要因の積み重ねで試合の流れってのは
作られていくわけです。

様々な要因で試合の流れが作られ、それに一喜一憂しているのは、
自我が確固たる存在を主張している場合と似ています(?)

様々な要因で時間が長く感じたり、短く感じたり、俺は幸せだとか不幸だとか
騒いでいますが、逆に言えば様々な要因が無ければ自我は存在できないのであります。

普通の感覚(?)だと自分(自我)が存在し、外から様々な要因が飛んできて
自由意志を持ってそれらを捌いていると感じますが、逆に様々な要因こそが自分で
あるならば、まさに自我は広大な海の中に起こる小さな波に過ぎない事が
わかると思います。

まさに自我とは世界の流れの中にある小波に過ぎません、
波には起きてから消滅するという時間の流れがありますが、海には時間の流れは
関係ありません。海と波に平等に時間は流れていない、というか海に時間が
無いのに対して、波は常に時間と自由意志があるという拘束の中で苦しみます。

様々な要因が流れてくるのに対して、反応する事で勝手に波が起こり、
ああでもないこうでもないと始まるのなら、流れてくるものが己であると
知れば良いのです。

そうすれば波は起きません、それどころか要因を経験する者が居なくなる瞬間が
訪れます。もはや要因を見る者も、それを経験する者も、それを観察する者
居なくなるのです、それが不生にして不死のあなた自身の本質です。






ちなみに私がいつも同じような事をややこしい表現で書いているのは、
決してパンチドランカーだからではありません。
だいぶ前も書きましたが、何かをコントロールしようとする欲求ほど邪魔なモノはありません。
そもそもコントロールしないと困るものなど無いはずであります、何故ならコントロールしようと
しているのは自我であって、それは自分ではないからです。

本当にコントロールしたいと思ってるなら、体の代謝やら胃腸の消化スピードやら
血圧なども自由にコントロールしたいと思っても良いはずですが、
その手のコントロール欲求というのはあまり見たことがありません。

結局、コントロールがどうこうと言っても自我の狭い範囲で知りうる範囲でしか
出てこないのであります。

そもそもよく見るとコントロールにすらなってないんですよね、
例えば「肥満の原因は血液が汚いから」とテレビでやってたら血液が綺麗になるようにとか
祈って、次の日に「肥満の原因は血液より部屋の空気が汚れてるから」と新聞で読んだら
空気が綺麗になるように祈って、「やっぱし肥満の原因てアンタがネガティブだから」
ネットに書いてあったら今度はネガティブを消そうとするのでしょうか。

これは自我の呟きに振り回されている状態です。
自我の呟きとは、本来は実体のないものですから、これだとラジオから聞こえてくる宣伝に
一喜一憂しているのと同じ状態です。ラジオ聞いてるだけで喜んだり悲しんだりしてる人は
明らかに変な人ですが、自我の呟きに対してだと何故か変だと感じないのは、それだけ
自我と自分を同一視してしまっているからです。

そんなちっぽけなモノに振り回されずに、もっと大きな不生不死のモノに
委ねてしまえば良いのであります。委ねるっつーと語弊がありますが、
その不生不死の存在は世界と表裏一体のものです。

自らが海である以上、何処にどう波が起きようが知った事ではないのであり、
海は波を好きな所には起こせません、その必要が無いからです。

ここまで読んで「それでは現世での利益みたいなものを諦めろっつー事ですか?」と
なるかもしれませんが、現世もクソも、夢の中では夢の世界は現世だと思っているでしょう。
現世も夢の世界もそれを経験している者にとっては現世以外の何者でもないのです。

つまり全ては主体と客体に挟まれた「経験者」から自我が生まれ、
ああだこうだ悩んだり苦しんでいるだけだとわかれば、
もはや起きてようが夢見てようが爆睡してようが全て同じです。
「経験者」は居なくなり、全てが自分となります。

あとはやりたい事があればやれば良いし、やりたくないならやらなければ良いのです。
というより経験者の行為ではなく世界(自分)が勝手に動くでしょう。

もうこうなると楽しいだけです、海からしたら自らの分身でもある「波」が
どのように動くのかを楽しめるのであります。





もしかすると現在の世界情勢からして、どっかの歯車が狂って人類の存亡を賭けた
三度目の大戦に来年あたりから突入するかもしれませんが、
それもまたエキサイティングで大変結構なのであります。

というのは冗談で、人類は今年の後半からとても幸福な世界を築くと思います。

上記の文章で不安になったり安心したりした方は、前述したように
ラジオから聞こえてくるCMで勝手に一喜一憂している人です。
勝手に一喜一憂している経験者の正体を見出しましょう。
以前の記事でも「起きてる時と夢を見てる時と熟睡してる時は同じ」みたいな事を
書きましたが、最も真実(?)に近いのは熟睡してる時です。

熟睡してる時は、自我も思考もクソもありません。
これこそ本来の状態に極めて近いのですが、何故か我々は起きている時が
本体みたいに感じてしまうのであります。

なのでこの概念が引っくり返ればそれでOKというアバウトな話に
なってしまうのですが、 よく考えればスピ系で言われる「手放せ」なんて
夢から覚める度に誰もが行ってるはずなんですよ、なので「手放し状態」
本来なら当たり前なのであります。

去年ぐらいに見た夢で強烈に記憶に残ってるのが、
何故か私が夢の中で豹の顔をしたグインサーガみたいなオッサンと
京浜東北線に乗り、わけのわからない国に行ってマシンガンでドンパチやるという
ファンキーな夢だったのですが、そこで(夢の中で)攻撃してきた少年兵みたいな
子供に対し、豹のオッサンが反撃を指示したので私が撃ち殺したわけですが、
何故か豹のオッサンが「オマエ、やり過ぎだろ!!」といきなりキレて、
私が何か言い返した所で目が覚めたのであります。

目が覚めれば夢の中で撃ち合いしてた緊張感も無く、子供を撃ち殺した罪悪感も無く、
何事も無かったかのように起きますよね。

つまり「手放す」なんて殆どデフォルトに行えるはずなんです(でも理不尽にキレた
豹のオッサンには今も少しムカついてる)これはやはり「経験者」である私は存在しない、
という事に気付くしかありません。

実際マシンガンで戦ってた「私」は何処にも居ないわけです。
なので居ないはずの「私」が経験したり記憶したり感じたりした事は全て幻です。
起きてようが夢を見てようが同じです。

何故なら夢から覚めると夢の中の出来事を全て手放すのと同じで、
眠りに入る時は起きてる時の出来事を全て手放すからです。

全てはスクリーンに写し出された映画のようなものです。
いつでも熟睡という状態に入る事で映写機側に回れるのです、
それは誰もが意識せずにいつも行っている本来の状態なのです。
その常に在る本来の状態に戻れば良いのです。







余談ですが今回の記事を書いている途中にゲームクリエイターの
飯野賢治さんの訃報を知りました。

正直言って私は飯野さんの作ったゲームは、飯野さんがゲーム雑誌に
出てきた当時から大して面白いとは思いませんでしたが、
学生時代に友人と「エネミーゼロ」を攻略したのは良い思い出です。

ご冥福をお祈り致します
主体と客体を越えた所に「私はいない」とか「自由意志は無い」とかの
次元(?)があるかもしれないのですが、これは正直文章で書くのは難しいです。

しかしこの辺に関するメールも多いので改めて書いてみますが、
まあこれはあまり深く考えなくて良いんですよ。

ちょっと苦しい例えになるかもしれませんが、今、世間ではデフレ脱却とか
インフレ起こすぜとか騒がしいですが、お金ってのは物価が安くなれば価値が高まるし、
物価が高くなれば価値は減りますよね。

つまりお金ってのはたくさん持ってると良いって価値観は実は幻で、
その価値は変動する物価によって簡単に変化してしまうのであります。
お金そのものに価値を置くか、その裏側に流れているものに
注意を向けるか
の違いであります。

もっと言ってしまえばお金そのものに実体みたいなのは無いんですよね、
まさに単なる紙切れです。

個人的な見解だと、何となく貧乏そうな人ほどお金そのものに価値があると
思い込んでいる傾向があるように見えます。
まあこれは完全に独断と偏見なんでどうでも良いですが。

話が逸れたので金の話はここまでにして、度々お勧めしているダグラス・ハーディングの
著書「今ここに、死と不死を見る」でも紹介されている話ですが、
鏡か何かに自分の顔を映してどんどん近付いていくと最終的に自分の顔は見えなくなり、
何も見る事は出来なくなります。

つまりここで言いたいのは、お金の価値と同じく「私」というものも
鏡に映した自分との距離等といった様々な要因によって初めて「私」が
作られる
という事です。

恋人や友人の写真とかもPCで思いきり拡大したら何が何だかわかりませんが、
適切なサイズにする事で初めて「恋人」や「友人」が現れます。
世界とは結局「在るけど無い」と「無いけど在る」が様々な要因次第で
如何様にも現れる漂う煙
のようなものです。

思考や感情も煙のように形を変える不確かなものです。
ゴキブリ大嫌いな人に真っ黒い画面を見せても何も感じないでしょうが、
画像を縮小してそれがゴキブリの画像だとわかればギャーギャー喚くでしょう。

自我に関しても起きている時は在るように感じますが、寝ている時は
在りません。これまた「在るけど無い」「無いけど在る」ものです。

しかし自我は強烈に「在る」と感じられるので、それに付随する思考や感情も
「在る」と感じられてしまうのです。こうして世界は主体と客体に分離され、
戦争が始まるのです。主体と客体に挟まれた自我(経験者)は戦争によって
ボロボロに傷付き、悩み、苦しみから決して逃れられないのであります。

この終わり無き戦争を終結させるのは核兵器でも無ければ憲法九条でも無く、
主体と客体自体が実は存在しない事に気付く事です。

あらゆるものが煙のように不確かなものだとわかると、
別に手放すとか何だとか頑張らなくても勝手に手放してしまいます。
「実は実体が無い」ものをいつまでも持っててもしょうがないからです。
カッコ良い言い方をすれば「今」と握手して仲直りする事です。

しかし全てを手放しても、最後には言葉による理解を超えたものが残ります。
それが主体と客体を超越した何かです。

カレンダー

03 2026/04 05
S M T W T F S
1 2 4
5 6 7 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 22 23 24 25
26 27 28 29 30

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
知らん
性別:
男性
職業:
食う寝る遊ぶ
趣味:
超合金魂
自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

合体と恐竜は男のロマン

メールはsiranwa22☆yahoo.co.jpに
☆を@に変えてお願いします

バーコード

ブログ内検索

P R

アクセス解析

Copyright ©  -- 知らんモンは知らん --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Material by もずねこ / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]