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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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度々このブログで「何もしない」事についてああだこうだと書いていましたが、
「何もしない」は言い方を変えると「何も出来ない」事に気付くという事でもあります。

以前も(いつも)似たような事を書いたのですが、私達が考えている事、つまり思考は
後付け設定のようなもので、過去や未来の事を色々と思い悩んで勝手に
ああだこうだと騒いでいるだけです。

いい加減引っ張り過ぎの感があるすき家ネタですが、やはり前回書いたのと
同じように「世界の支配者はすき家なんだよ!」と思ったら、それを基準にああだこうだと
思い悩むわけです。じゃあその「世界の支配者はすき家」は誰が思っているのか という事です。
「基準」を作り、それについてああだこうだと考えている人は誰なのでしょうか。

「もちろん、私ですよ」と思った人は、残念ながら不正解です。
実際は「基準」を作ったきっかけは、周りの環境や周りの人たちの言動を見たり聞いたりした事を
勝手に解釈しただけです。

誰が解釈したのか?それは世界から分離してしまった際に生まれたエゴであります。
エゴは、勝手に生まれただけで毒にも薬にもなりません。
しかしながらいつの間にかエゴがあなたと一体化し、あなたはエゴがイコール自分であると
勘違いするようになってしまいました。

その結果として、単なる雑音でしかない思考を「自分の内なる声」だと完全に誤解するように
なってしまったのです。

思考が単なる雑音であり、「後付け設定」であることに気付くと、
「では、私はどこに存在するのだろうか」という事になると思います。

今まで「内なる声」に耳を澄ませてある時は希望を、ある時は絶望を経験し、ある時は
その声に従い体を動かしたり、牛丼を食ったりしたりしていたかもしれません。
「後付け設定」を信じれば信じるほど、「俺はこれこれこのように考え、このように行動したのだ」
というエゴが強化され、いつの間にかそれは絶対のものとなってしまいます。

それらが全部「単なる雑音」「後付け設定」だと気付いたら、エゴ視点からの「私」は消滅します。
「私」は何も考えていなかったし、何処にも居なかったんです。

「何もしない」は「何もしない」ようにしよう!ではなく、最初から「何もしていない」のです。
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前も同じような事を書いたんですけど、
このブログを読んで頂いている読者の方が求めているものって「方法論」だと
思うんですよね。こうすればこうなるよっていう公式というか法則みたいな
ものを期待している方が多いと思うんですけど、ブログを見る度にくだらないギャグしか書いてなくて、
それでも何か意味が隠されているんだとか思って読んでいる方がいるかもしれないと思うと、
何か申し訳ないなーって感じですよね。

どう考えても昨日のタイトルの「伊藤ハム」なんかに意味が隠されてるわけないじゃないですか。

なんでこんな事書いたかというと、読者の方から頂くメールの内容の九割は「面白いです」とか
「僕はすき家でバイトしています」とかなんですが、たまにかなり深刻な悩み
書いてくる方もいて、そういう方もいると思うと、もう少し真面目に書くのが良いのかなとか
思うんですが、結局の所外側に救いを求めても救いは無いという事を強調したいですね。

外側になにかリアクションを求めても、望んだ結果が出たり出なかったりでしょう。
外側が良くなれば自分が良くなると思っている以上、世界と自分はずっと分離したままです。
「ムームー星人」の記事でもちょっと書きましたが、本来の自分は全ての始まりであり
創造主であるわけです、それが色々あって「外側の世界と自分」というように分離を作り、
外側の世界を「自分の能力で」どうにかしようと躍起になっているわけです。

そもそも「何々を叶える」って言い方も誤解を生む要因の一つなんですけど、
私自身は「これこれこういうのを叶えよう」とは思いません。振り返ってみると、結果として
叶っていたね という事ばかりです。(4月22日付の記事「ハエを切る」参照)
それを説明しようとすると、どうしても「こういう事が起きて叶えました」「全部叶ったんです」と
なってしまうわけです。

大体何かの願いが叶うにしたって、振り返ってみれば殆ど偶然というか、巡り合わせですよね。
スポーツとか芸術の世界でそれなりの成功をした人でも、その分野に興味をもったきっかけが
たまたまテレビで観たとか、近所のオッサンが偶然その道の指導者だったとか、
「自分の能力で成功した」と思っているものは実は殆ど皆無だったりします。
テレビをつけなかったら、その分野に興味を持たなかったかもしれませんし、
近所のオヤジが焼き鳥屋だったら、焼き鳥屋になってたかもしれません。

成功なり願望実現なりは「自分の能力」なんだ、と思い込むからいつまでたっても
分離してしまうのです。語弊がある言い方ですが、文字通り「能」であると
認識した時に、創造主としての認識が見えてくるのです。

個人的な昔話になりますが、十年以上前に亡くなった私の祖父は、地元ではそれなりに名が知れた
資産家でした。戦争から復員後、焼け野原になった日本でたった一人で商売を始め、
晩年は土地や不動産を多く所有していたのですが、
私が中学生ぐらいの頃に「爺ちゃんはどうやって金持ちになれたんだ?」みたいな事を
聞いた時に「俺は何もやってないよ」と答えた祖父。
「でもなんか秘訣があったんでしょ」とさらに食い下がると「ぶっちゃけ運」という
実にツマンネー答えが返ってきました。

あの時は「それじゃ面白くねーよ」とか思ったものですが、今にして思うと
祖父が私に言った「ぶっちゃけ運」にはシンプルにしてディープな
意味があると(少なくとも伊藤ハムよりはずっと)痛感している
次第であります。
昨日の記事を読んだ読者の方から「エイブラハムはハムではありません!」とかの
怒りのメールが来たら、どう弁解しようかとビビッていたのですが、幸いにして
そのようなメールは届いておらず、ホッとしています。

私としては別にエイブラハムの正体が肉屋のオッサンの妄想だろうが、
伊藤ハムの社員だろうが、どうでも良いと思っています。

というか世界は自分なのですから、どこまでも自分中心(自分以外いないので、自分・他人という
表現は本来おかしいのですが)に考えてしまって良いのです。
つまりエイブラハムは実在する!と感じたらそれが真実であり、エイブラハムはハムの一種だ!と
思えばそれもまた真実なのです。全ての決定権は「私」にあるのです。
4月28日付の記事で「世界の支配者はすき家だ」と思えばそれでもOKみたいに書きましたが、
それと同じ話であります。

しかしこの「私」が曲者であります、殆どの場合エゴによって歪められた「偽りの私」が
作り出した基準
になってしまっているからです。

ある特定の願望を抱いた際に「でも、何々が足りない」とか考える事があるかもしれませんが、
それらも全て偽りの私が作り出したものです。
先のすき家の例で言えば、「世界の支配者はすき家だ」と思えば、「すき家にお金を払わないと
黒服の男たちに拉致される」
とか思って、一日三食チーズ牛丼を食う生活を送るかもしれません。

「松屋で食べたい」と思っても「でも、この世はすき家が支配してるし・・・」とか思って
結局松屋に行けないかもしれません。

この「世界の支配者はすき家」が「偽りの私」が作り出した基準であり、
「松屋で食べたい」が「願望」です。

「偽りの私」が勝手に作った基準の中で「松屋で食べたい」と思っているから
ナントカメソッドを追い求めるわけです。基準を無くしてしまえば松屋で食おうが吉野家で
食べようがOKなわけですよね。

ですからこの基準を取っ払うために前々回の記事で書いた「無」
すなわちムームー星人になる事がポイントとなるわけです。
「無」は全ての基準が無い状態です、大袈裟に言えば宇宙がまだ始まっていない
何も無い「無」です。

ここから様々な意図や願望が生まれ、いつの間にかエゴがくっついてきたり、
何だかんだと世界が展開するでしょう。
結局の所、エゴも自分自身が創っていただけだったのです。
文字通りエゴは幻以外の何者でもなく、敵でも何でも無かった事に気付けます。

「無」からどのような世界を創るかは、全てあなた次第です。何も創る気がしないなら
それでも結構、純粋な意識として漂うのも悪くないです。一度「無」を感じれば
今日からムームー星人の仲間入りです。

前々回の「ムームー星人」昨日の「プリマハム」そして今日の「伊藤ハム」のハム三部作
決してふざけていたわけではなく、読者をムームー星人に覚醒させるための壮大な仕掛けが
隠されていたのです。(ウソです)
ブログを読んで頂いている読者の皆さんには、少しでも何か伝わるものが
あるようにと、これでも色々と考えながら書いていたのですが、やはり文章で
伝えるのはなかなかに難しいものですね。

文章で書くという事はどうしても思考を用いるので、書いた本人の感覚と
ある程度分離してしまうのは仕方ありません。さらに読んでいる人の感性と
書いている人間の感性が近くないとなかなか理解できない、という事になりがちです。

私個人の話をしますと、過去に「引き寄せの法則」は読んだ事があると書きましたが、
どうも「引き寄せの法則」とは個人的にフィーリングが合わなかったですね。

最初に目次を見て興味を引いた所だけざっと読んだせいかもしれませんが、
「エイブラハム、それはどういう事ですか?」とか書いてあるのを見て、
何故この本の著者はハムと会話しているのだろうか、どういう事だろうとか不思議に
思ったのですが、最初の方から読み直すと、エイブラハムが早い話コックリさんの強化版
みたいなもんだと知り、色んな意味で驚きました。

私が小学生の時、クラス内で「空前のコックリブーム」が巻き起こったのですが、
なんかコックリさんは悪い霊しか出てこないとか何だとかみんな言っていたので、
随分と親切なコックリさんもいるもんだと思ったものです。

話が脱線しましたが、どうも「引き寄せの法則」はフィーリング的に合わなかったので
「引き寄せの法則」はそれっきりまともに読んでいません。
私が個人的によく読んだのは度々紹介している「過去にも未来にもとらわれない生き方」と
「今ここに、死と不死を見る」です。
まあこの二冊は「引き寄せ」とは趣旨が違いますけど。

スポーツの指導なんかでも「リラックスして握る」という感覚を説明する際に、
「卵を潰さないような感じで」と説明するのと「赤ちゃんと握手するように」
説明するのでは、だいぶ説明を受けている側の捉え方が変わってきます。

どちらが受け手のフィーリングにマッチするかは受け手にしかわからない事ですから、
この辺がやはり説明というか、解説する事の難しい所ですね。

ですから願望実現系の本でも、悟りましょう系の本でも何でも良いのですが、
そういった本を買う場合、できるだけ立ち読みして文章から受ける感じが自分のフィーリングに
合っているかどうかを見極めた方が良いと思います。
今回は非常に抽象的な話です、あまり面白くないので期待しないでください。
いつも抽象的だろとかのツッコミもやめて下さい。

基本的に我々が観ている世界は非常にシンプルであります、
焦点を絞った事が現実(のように)なって現れるだけです。
最もわかりやすいのが自分の肉体です、腕や足、胸や腹は私達が
「肉体を持っている」という事に焦点を絞っているからです。

では自分の肉体と思っているものすら幻想であると認識すると
どうなるでしょうか、恐らく何も無くなると思います。
何も無くなるという事は、過去も未来も消えてしまいます。

私達は無意識の内に肉体を通して全ての経験を積んでいると思い込んでいます。
しかし、「経験の媒体」としての肉体が幻になってしまうと、もうそこには「無」しか
ありません。
しかし何故「無」であると認識できるのでしょうか。
それは「無」を「無」である、と認識するものが存在するからです。

その「無」であると認識しているものが「本当の私」です。

全ての原点を思い出す事が出来れば、あとは「無」から様々なものを創造できます。
エゴによって色々と惑わされた世界に対しああだこうだとするのではなく、
いつでもリセット出来ることを思い出せば良いのです。

色々と感情や思考が渦巻いても別に良いのです、それらと本当の私は一切関係ないのですから。
別に押さえ込む必要も無いし、「これはエゴだから無視しなければ」とかも必要ありません。
コップの中の嵐に気をとられていても、何も良い事はありません。

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職業:
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自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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