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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「どうすれば”無”だとか何だとか感じる事が出来るのか?」という
メールを頂きましたが、これはもう既に、この質問の中に答えがあると言って
良いでしょう。

「どうすれば感じる事が出来るのか?」と思っているのは、一体誰か、という事です。
「私は」「どうすれば~」と感じています、この私が思ってるんです。という人も
いるでしょう。

しかし実際は「どうすれば~」という思考でも感情でも何でも良いのですが、
それが浮かんでいるだけです。浮かんでいるだけのものに、何故わざわざ「私は」という
主語をつけて話をややこしくしているのでしょうか。

そうすると、「じゃあ何処から浮かんできているんですか?わけがわかりません」というかも
しれません。これも「私が」「何処から浮かんでいるか知りたい」「私が」「わけがわからん」と
言っているのと同じです。

何処から浮かんでくるかなんて、それこそ「知らんモンは知らん」であります。
スピ系っぽく言うなら神の意志でしょう、つまり「私は、私が」と「私」が探している間は、
決して見つからない
のです、しかしそれはすぐ目の前にあるのです。

様々な思考や感情が神の意志から浮かんでは消えていきます、しかしそれは決して
「私」のものではない、「私」はエゴがくっつけた概念、エゴそのものです。つまり幻です。
何が浮かぼうが、何を感じようが、そして何が起ころうが、それは「私」ではない。
「知らん」のです。

ですから「わけがわかりません」はそのまま「わけがわかりません」という思考が
浮かんでいるだけで、答えなんか知らんのです。

わけがわからん場所から色んなものが浮かんでいる事に気づく、あるものは感情や思考、
そしてあるものは他人(という概念)や建物(という概念)かもしれません。
そしてそのわけがわからん場所に最初っから居た事に目覚める、
つまりあなたは初めから神の意志そのものだったというわけです。

ですから神の意志から浮かんだ全てのものには「神を感じる」とか「愛に満ちている」とかの
表現がスピ系や宗教では好んで使われるわけです。
もちろんお約束の「すき家の意志」だったでもOKです。

隣のオヤジのハゲ頭も、道端の犬のウンコも、近所で評判の美人なお姉さんも、
壁に穴が開いている障子も、綺麗に手入れされた庭も、そしてすき家の看板も、
そこらじゅう神だらけだったのであります。
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前も書いたかもしれませんが、自由意志というものは存在しません。
「自分の意志で色々やっている」と思っているものは、結局は周りの
状況や刺激やその他色々の要素に操られているだけであります。

例をあげると、あなたが車で高速道路を走っているとします。
この時何故、あなたはハンドルを握り運転しているのでしょうか。
「そりゃ高速走ってるからに決まってるだろ」という答えが返ってくると思います。

その通りです、「高速道路」「車の運転席にいる」という状況があるから
あなたはハンドルを握って運転しているわけです。つまり状況に操られて動いているだけ
なのです。

自由意志があるならいきなり運転席で逆立ちを試みるとか、ハンドルを放して漫画を読むとか、
窓からバナナを放り投げて後続車をスリップさせるとかやっても良いはずです。
何故やらないのでしょうか、それは前述した「高速道路で運転席にいる」という状況に
合わせた行動をとっている、というよりとらされているからです。
自由意志はどこにもありません。

ここまで読んだ読者Aが、ある日高速道路で運転をしている時にいきなりズボンを下ろして
下半身を露出させたとします。「どうだ、俺はこんなに突拍子も無いことをやったぞ。
これぞ自由意志だ」となるでしょうか?

これは自由意志とはなりません。ただのキチガイです
何故なら読者Aが下半身を露出させたのは、「このブログを読んだ」という
刺激によって起こった行為
だからです。先ほどの「状況」に操られているのと
何ら変わりはありません。

自由意志は無い、という事は結局の所「何かをやっている」者など何処にもいない、という事です。
願望実現とか必死こいてやっている人は、いなかったのです。
最初からあるのは「無」だけであったのであります。

これを宗教家なら「神の意志」と言うでしょうし、
スピリチュアルマスターとか言われてるオッサンなら「大いなる意識」とか言うかもですし、
このブログなら大半の読者が予想した通り「すき家の意志」であります。

呼び名はどうでも良いのですが、それらと一体になる事、というか最初からそうだった事に
気付く事で、不足も何も無い完璧が垣間見えるのです。
ここ数日は「私」は実は存在しないのだ、という話を続けてきました。
正直言って、書いている私も途中で何書いてたんだっけと思うぐらい
文章にし辛い内容でした。
今回はもう少しシンプルを目指して書いてみます。

「私」が存在しない、という事は今まで「私」が感じてきた時間等の
概念も「無かった」事でもあります。

時間が無いという事は、始まってもいないし終わってもいないという事で
あります。つまり全てがもう「完成」してしまっているわけです。

という事を書くと「そ、そんな・・・じゃあ私はこれからもずっと貧乏なまま
なんですか、なにをやっても変えられないんですか」
と思う人もいるかもしれません。

それに対する答えはもちろんイエスであります。ただ、ここで私の方から
問いたい事があります。「あんた誰?」と。

「なにをやってもダメなのか」と勝手に絶望しているのは一体誰なのか、という事です。
誰がそう思っているのですか、という事です。

存在しないはずなのに何で「なにをやってもダメなのか」と思うのでしょうか、
存在しないはずなのに何故か存在を主張しているのは何か?そしてそれは
本当に存在しているのかという事です。

言い方を変えると、例えば扇風機から直接風は出ていません。
羽が回り、空気をかき回すから風が発生するわけです。
空気が無ければ風は発生しないし、もっと言えば電源が抜けてれば扇風機自体動きません。

にも関わらず扇風機が「私は風を出しています」と主張するのはおかしいではないですか。
それは扇風機の勘違い以外の何者でもありません。
つまり「風を出している」者は存在しないのです、それでも「私は風を出しています」と
主張する人は、まさに「あんた誰?」であります。

結局、「本当の私」の全ては「一体誰がそれを考えたり感じたりしているのか」という所に
行き着くのです。

「私は成功法則を発見した!」とか「アタシ、悟ったわ!」とか言ってる人でも同じ事です。
誰が「発見した」のでしょうか、誰が「悟った」のでしょうか。

色々思考が湧いてきたら問う事です、「あんた誰?」と。
度々このブログで「何もしない」事についてああだこうだと書いていましたが、
「何もしない」は言い方を変えると「何も出来ない」事に気付くという事でもあります。

以前も(いつも)似たような事を書いたのですが、私達が考えている事、つまり思考は
後付け設定のようなもので、過去や未来の事を色々と思い悩んで勝手に
ああだこうだと騒いでいるだけです。

いい加減引っ張り過ぎの感があるすき家ネタですが、やはり前回書いたのと
同じように「世界の支配者はすき家なんだよ!」と思ったら、それを基準にああだこうだと
思い悩むわけです。じゃあその「世界の支配者はすき家」は誰が思っているのか という事です。
「基準」を作り、それについてああだこうだと考えている人は誰なのでしょうか。

「もちろん、私ですよ」と思った人は、残念ながら不正解です。
実際は「基準」を作ったきっかけは、周りの環境や周りの人たちの言動を見たり聞いたりした事を
勝手に解釈しただけです。

誰が解釈したのか?それは世界から分離してしまった際に生まれたエゴであります。
エゴは、勝手に生まれただけで毒にも薬にもなりません。
しかしながらいつの間にかエゴがあなたと一体化し、あなたはエゴがイコール自分であると
勘違いするようになってしまいました。

その結果として、単なる雑音でしかない思考を「自分の内なる声」だと完全に誤解するように
なってしまったのです。

思考が単なる雑音であり、「後付け設定」であることに気付くと、
「では、私はどこに存在するのだろうか」という事になると思います。

今まで「内なる声」に耳を澄ませてある時は希望を、ある時は絶望を経験し、ある時は
その声に従い体を動かしたり、牛丼を食ったりしたりしていたかもしれません。
「後付け設定」を信じれば信じるほど、「俺はこれこれこのように考え、このように行動したのだ」
というエゴが強化され、いつの間にかそれは絶対のものとなってしまいます。

それらが全部「単なる雑音」「後付け設定」だと気付いたら、エゴ視点からの「私」は消滅します。
「私」は何も考えていなかったし、何処にも居なかったんです。

「何もしない」は「何もしない」ようにしよう!ではなく、最初から「何もしていない」のです。
今回は非常に抽象的な話です、あまり面白くないので期待しないでください。
いつも抽象的だろとかのツッコミもやめて下さい。

基本的に我々が観ている世界は非常にシンプルであります、
焦点を絞った事が現実(のように)なって現れるだけです。
最もわかりやすいのが自分の肉体です、腕や足、胸や腹は私達が
「肉体を持っている」という事に焦点を絞っているからです。

では自分の肉体と思っているものすら幻想であると認識すると
どうなるでしょうか、恐らく何も無くなると思います。
何も無くなるという事は、過去も未来も消えてしまいます。

私達は無意識の内に肉体を通して全ての経験を積んでいると思い込んでいます。
しかし、「経験の媒体」としての肉体が幻になってしまうと、もうそこには「無」しか
ありません。
しかし何故「無」であると認識できるのでしょうか。
それは「無」を「無」である、と認識するものが存在するからです。

その「無」であると認識しているものが「本当の私」です。

全ての原点を思い出す事が出来れば、あとは「無」から様々なものを創造できます。
エゴによって色々と惑わされた世界に対しああだこうだとするのではなく、
いつでもリセット出来ることを思い出せば良いのです。

色々と感情や思考が渦巻いても別に良いのです、それらと本当の私は一切関係ないのですから。
別に押さえ込む必要も無いし、「これはエゴだから無視しなければ」とかも必要ありません。
コップの中の嵐に気をとられていても、何も良い事はありません。

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自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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