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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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今回はそもそも願望の実現とは何ぞやという話ですが、
簡単に言えば「正しいと思う方向に物事が進む事」ですよね。

では何故それを「正しい」と思うのか、これはもう「そう思うから」としか
言いようがありません。
何が正しいとか何が悪いというのは、直感でそう感じるだけの話です。

「いや、違います。私はこれこれこのような考えの下に、こちらが正しいと
考えます」
という人も居るでしょう。しかしそういった考えというのも、
「そう感じる」事から始まるので、理屈を並べても原点はどう感じたか、に
集約されるのであります。

例えば私はゴキブリを見ても特に何も感じません。
しかし嫁さんはゴキブリを見ると発狂し、たたでさえブサイクな顔面をさらにブサイクにして
ゴキブリをブッ殺すまで捜索を止めません。

これはもう、そのような感じ方になっているからとしか言えません。

私の嫁さんはゴキブリを全宇宙から皆殺しにする事が正しいと思っています。
しかし正しい事を実現するには間違った事、つまりゴキブリの存在が欠かせません。
なので嫁さんはゴキブリを”観る”のであります。

私はゴキブリの存在が正しいとも悪いとも思っていません。
ですからゴキブリ自体が居ても居なくても構わないので、却ってゴキブリを
”観なく”なるのであります。文字通り眼中に無いのです。

「正しいと思う方に物事が進む事」を期待するのではなく、
正しいと思う事も、間違っていると思う事も、捨てる事が肝要です。

”正しい事”というのは、勝手な定義です。
正しい事を選択するのではなく、ただ単に出来事を、行動を受け入れる事を
選択するのであります。








と言いつつも、この前も嫁さんがゴキブリを部屋の隅に追い込んでビニール袋に捕獲し、
ビニールごと熱湯にぶち込んで「やったぞオラァ!」とか雄たけびをあげているのを
見た時はドン引きしました。
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願望がどうのこうのと言うのは、簡単に言えば自分にとって都合の良い事を
願う事であります。悪い事や悪い感情に抵抗してはならない、みたいな事は
よく言われますが、その逆の良い事に対しても抵抗している場合があります。

例えば以前頂いたメールで「私は理想の彼氏を見つける事が出来ました、とてもハッピーです」
という方が居たのですが、「私は中学の頃は虐められていたので地元から離れたい、
でも彼はまだ引越したくないと言っている。あと彼の実家がそれなりに裕福なので
結婚資金の大半は出してくれそうですが、以前友達との金銭トラブルを経験した事もあって
何か気が引けるので断ろうかどうか迷っている」
みたいな感じで
ああでもないこうでもない、と様々な好条件に抵抗しているんですね。

別に中学の頃に虐められていようが、人も羨むカップルになれば良いし、
義理の御両親がお金を出してくれるというなら、ありがたく使わせて貰えば良いと思います。

しかしながら何故か勝手に枠組みを作り、その枠から出ない幸せだけを求めてしまっています、
つまり過去の出来事、そしてそこから勝手に未来を予想して作り上げた枠が
自分だと思っており、良い事があってもそこから出てはいけない、と
制限を作ってしまっています。

なので良い事があった場合、あるいは何だか楽しい感情が起きてきた場合においても、
そこから生じる抵抗に注目すべきであります。

抵抗とは別に悪者でも何でもなく、ここまでが自分という枠だよと教えてくれるものなので、
抵抗があればそのまま感じればそれで良いと思います。

抵抗が消えていけば、結局は自分というものが消えていくのであります。

仮に一ヶ月10万円で生活している人が、50万やると言われれば、「50万あれば
あれを買ってこれをやって、こうやって」
と自分中心で考えますが、
いきなり50兆円やると言われたら「何をして良いかわからない、とりあえず
もう少し現実的な額が欲しい」
とか思うのに近いです。

50兆円の方が明らかに金額的に良いのに、自分の枠の中で判断して
自分に合った額に落ち着いてしまうのですね。
50万だと自分が居るのに、50兆だと自分が吹っ飛ぶのは面白いものですね。

と言ってもイメージングとか念じる系が好きな人は以前の記事の方が
合うかもしれません。しかしこれも自分という枠を知り、枠を超えて行くものなので、
アプローチの方法としてまず自分の枠を知る方から行くか、いきなりブッ飛ぶかの違いで、
行き着く先は同じになります。
以前の記事で意外と反響が多かったのがこれなんですが、
この記事で紹介させて頂いたネカマ氏から再びメールを頂きました。
以下は抜粋です。

「その後も私は楽しいネカマライフを送っております。
今は人妻、女子大生、OLの三つのネカマを続けていますが、
実際に存在しない女性でも、相手の持っているイメージでどんどん実在感が
増して行くのが非常に面白いです。
今の私は以前のようにネカマがバレないようにしようとする事も無く、
女性っぽい対話の中で勝手に創られていく女性像に委ねてしまっています。」

「ここで私は存在とは全てが、そう思っている、そう感じているイメージの中にしか
出てこないものではないかと感じるようになりました。
人妻キャラもJDもOLも、私が意識して演じたのではなく、私の言葉使いで
相手が勝手に、学生さんですか?とか言い出して、勝手に創られていったものです。
本来、JDは何処にもいないのですが、私と相手の間では確固たる存在として
いるのです。」


「勝手に感じたものが、存在として現れる。という事を知った瞬間に
自分の手が視界に入り、手が生えてきたように感じました。
疲れたときに手すりに掴まって立ちますが、
観て感じるものは、全てその立つための手すりのようなものではと感じます。
つまり私が存在するのではなく、存在を感じるために手すりを探しているのではと
思いました。」


「それからの私は、悩み事が次々と消えていきました。
悩みや困った事と感じる手すりを、この手すりは使わない、と決めていったのです。
ですから私は悩みや困った事を持つ存在では無くなりました。」

「こうして私は今もネカマを続けています。
相手が勝手に探した”手すり”で、私自身もどんな女性になっていくのか楽しみです。」





という結局ネカマかよ、という話なのですが
この方の体験談はよくまとまっているのではないかと思います。

もはやネカマを演じるのでもなく、バレないようにするでもない、
ついに当ブログからネカマの達人が生まれてしまったようであります。

何をするでもなく勝手に女性像が創られていく、というのは面白いですね。
まあこれは男の下心がいかに間抜けかってことでもあります。
私もオンラインゲームでフレンドになっている女子大生の子は、
顔も性格も悪いウチの嫁さんの100倍可愛くて性格の良い子だと勝手に創ってますから。

結局、世界とは勝手に流れていくものです。
その流れの中でどんな手すりに捕まって、どんな存在を見出すのかは
全くの自由という事ですね。





でもフレンドの女子大生が中身オッサンだったら私は生きる希望を失って死にます。
そもそも何故願望を持つのかというと、自分の人生を改善したい、という
欲求から来ている事が殆どだと思います。

しかしながら、その「自分の人生」は果たして真実なのでしょうか。

例えば、夢を見ている時も、夢の中の世界は「自分の人生」の一部だと
感じ、夢の中でも願望を持つでしょうし、その為の行動も取るでしょう。
でも夢から醒めれば夢の中の自分は消えてしまいます。

起きている状態も同じで、自分と思っているものは「そう思っている」だけで、
存在しているわけではありません。何処まで行っても「そう思っている」だけであります。

ということは、居るか居ないかわからない「自己」が「そう思う」願望も
あるかどうかわからんという事です。そもそも願望が叶わなくて困る、というのも
「そう思っている」だけです。

ですから「そう思う」という思考が本体ではないのです。
そこからの呪縛を解くには、「自己と思っているもの」に関するものを、
全て丸投げしてしまう事であります。

「ポジティブシンキング」とかの類って、要はこの丸投げまでは行けない「自己」の
救済にあるようなもので、「何が起きてもポジティブ」に捉えようとする事で
間接的に「丸投げ」しているわけですね。

宗教とかもこれに近くて「何が起きても神に愛されている」とか「全て神様のお恵み」とか
取る事で、これまた「丸投げ」に近付こうとしているわけです。
”全てがすき家の意志”というのも、早い話がこれですね。

なので丸投げなんてとんでもねえ、と感じる概念を調べてみる事が肝要です。
”丸投げチェック”を行う事で「そう思っている自己」すなわち「偽りの自己」を
炙り出せるのであります。

人によってはお金だったり、または仕事や異性だったり色々だと思いますが、
どうしても丸投げは出来ない、と感じるものを敢えて丸投げするのであります。

漫画「ベルセルク」でグリフィスが仲間たちを「捧げる」事で人間を超えた”ゴッドハンド”に
転生するじゃないですか、あのイメージですよ。

しかしそれではダーク過ぎる、と思うなら神様にお供え物をしているとか、
天使に贈り物をしているとかでも良いのであります。

要は丸投げしやすいイメージで、大事なのは本当に丸投げしてしまう事です。
「自己」は「そう思っていた」だけだったと知れば、自己を超えたゴッドハンドの
領域がわかるでしょう。
「二十歳の学生ですが麻雀にハマって最近はフリー雀荘に入り浸っています。
しかしいつも勝負所で心が揺れてしまいます、どうすれば良いのか」

馬鹿学生から 将来有望な若者からメールを頂きました、ありがとうございます。

心が揺れるといっても、そもそも心とは存在しないものであります。
波の動きを見ていると様々な形に見え、たまに何か意味のある形に見える場合もありますが、
だからといってそれが実際に存在するわけではないのと似ています。

なので話が飛びますが潜在意識の法則とか何だとかいうのも、結局は心がそのような
ガワを被って存在するかのように振舞っているだけです。
ある一定のパターンを見てナントカの法則と名付けているわけです。

では潜在意識どうこうは存在しないのか、というとそうではありません。
何も感じずにボケッと波を見ていても波は存在するのと同じで、名前を付けられない
何かは常に存在します。

簡単に言うと熟睡している時でも耳元で大声を出されたら起きるし、
顔を引っ叩かれても起きると思います。つまり寝ていても、意識というか何というか、
何かは常に存在するわけですね。

死んでしまうとこういった感覚受容器と意識が分断されるので、引っ叩かれようが
何されようが起きなくなりますが、それはあくまでも受容器と意識の分断であって、
意識が消滅するのではありません。

フィルムをぶった切れば映画は映らなくなりますが、スクリーンがぶっ壊れるわけでは
無いのと同じです。

注目すべきは耳元で大声出されて起きるというプロセスは心を通さないという事ですね。
フィルムを流せばスクリーンに映像が出るのと同じで、あらゆる事象はダイレクトに
起きるのであります。その事象に歪んだガワを被せて、”何かに見える”ものを
心と名付けているのであります。

つまり、心は現実を創っていないのですよ。あくまで意識がダイレクトに創っているのですね。
ですから揺れない心を鍛えるとかより、揺れる心自体がまやかしである事を知るべきです。

心の存在を疑えば、熟睡している時も、死んだ時も、”常に在る何か”しか
そこには在りません。つまりそれが潜在意識と心が名付けているものであって、
元々最初から”それ”と一体だったのですよ。







話が麻雀と全然関係無い方向にブッ飛んでしまいましたが、
そもそも今時の若者で雀荘に行って麻雀打つってあんまり居ないんじゃないでしょうか。
私が馬鹿学生だった頃は、もうかれこれ20年近く前になりますが、
その当時はまだ結構居たように思います。

賭博罪の時効は3年らしいなので白状しますが、私の祖父も麻雀好きで、
家に当時最新の全自動卓があった事もあり、
一時期私の実家は高レートアングラ雀荘と化していました。

でも場代を取ったりはしてなかったので、賭博開帳罪はセーフという事で勘弁してください。

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自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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