「全てが意識であるなら結局はゲームの主人公が
ゲーム世界で上手くいくかどうかもゲーム次第と
いう事になるのか?」というメールを頂きました、
ありがとうございます。
これは鋭い視点であります。
例えば主人公がエンディングの最後に死ぬゲームなら
確かにそれはゲームの仕様というか決まりになります。
しかしゲームというのは早い話がプラグラミングされた
要素の集まりであります、最近のゲームはキャラクターが
ベラベラ喋るのが当たり前になっていますが、
主人公のセリフもその辺のモブキャラのセリフも
音声データという点では同じです。
このデータをゲーム上で走らせるプログラム的なものが
意識であります。つまり意識は全ての声を作っているわけ
で、実際は自分の声も、他人の声も全て意識を通して
聞いています。
という事は我々は
主人公でもあり同時にモブキャラでも
あるという事で、実は最初から主人公とかモブとかの
区別は無いのであります。
なのでゲームの最後で主人公が死んだら死んだで、
それはそれで良いという事になり、モブが怪物に
踏み潰されても喰い殺されてもそれで良いとなります。
そもそもゲームにおいて主人公が魔王を倒したとか
何かの職業を極めたとか勇者の血に目覚めたとか、
それは主人公が頑張ったからでしょうか?
そうではなくてゲーム上でそのようにプログラムを
走らせたからですね。つまりあえて成功とか失敗という
言葉を使うなら、主人公が
成功するか否かはゲームを
走らせるプログラム(意識)次第という事になります。
であるならば意識を邪魔せずに意識そのものとして
在りなさいという事になるのですが、
ここで面白いのがそうなると前述したように主人公とか
モブとかの区別が消えるので、「成功した主人公」
「失敗した主人公」という概念自体が無くなるのですね。
なのでスピリチュアル系の話は常に矛盾したように
感じるわけです。
まあすさまじくザックリ言うとゲームの攻略法って
あくまで
主人公にとっての攻略法ですから、
そうでは無くてゲームを走らせているものとして
在れば攻略法いらないよねという話でした。
PR