夢の中で夢だと気付いたら云々とか世界は幻だから
何やかんやというのは、実際は
非常に簡単なものです。
前の記事でも書きましたが基本的に何かしらを知覚
しないと自我のストーリーみたいなのは始まらないので、
とりあえず私というものを知覚し、更に他者を知覚し、
そこからの関係性も知覚し、というように話が展開して
いきます。
という事は逆説的に言えば
知覚が発動(?)しない範囲ならばそれはまさに自他が存在しない意識として在る、
という事になります。
簡単な例だと顔洗ったり歯磨いたりするのは
歯が知覚過敏ですとかは置いといて、やってる時は
殆ど知覚していないと思うんですよね。
つまり実は歯磨いたり顔洗ってる者は
"いない"んですよ、
知覚していないからです。
なのであらゆるものが歯磨きレベルになれば
自ずと知覚する自己も居ない、という話になります。
本当に歯を磨いたり顔を洗ったりしている自己は
存在しているのか?と追求すると、全ては知覚の範囲内で
起こっている事をああでもないこうでもないと
言っているだけで、実は最初から何もする必要は
無かったという事になります。
これを知るために瞑想とかその他色々があると思うん
ですよね。
瞑想をしているのに云々とか、何々をしているのに云々
とかいうのは結構ありますが、これはその何々の方に
知覚がいっているのではと感じます。
瞑想そのものを知覚するのではなく、瞑想している自己も
知覚の範囲内である事を知るべきであります。
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