昨日までの記事で、「心に振り回されるとうんたらかんたら」とか書いてきましたが、
「じゃあ一度ブンブン振り回されるともうダメなのか」みたいに受け取った方もいるかもしれません。
これは別に振り回されようが殴られようがどうでも良いもので、
問題は振り回されることで「何にも叶ってないわ!」とか「トンデモねえ不幸だわ!」という
思考を現実であると思い込む事が真の問題です。
本当は何も起こっていないのであります、
起こっていない事を「起こっている」と捉えて
「ほらやっぱり起こっているだろ」と次々と「証拠」を作り出していくのが問題なのです。
振り回されるのは別に良いのです。ただ振り回されてるだけなのに、いつの間にか問題を
作り出してしまう、それは何故かというと「いやああああ、振り回されているわ、良くないわ」→
「良くないのは、問題を抱えているからだわ」→
さらに「いやあああああああ」となるからです。
語弊がある言い方ですが、結局
「問題が起こって欲しい」んですよね、
だからこそ、それが投影されるわけです。
振り回されているのは、別にあなたではありません。
エゴでも何でも良いのですが、とにかく
「あなたとは関係無い何か」です。
関係無いのですから、わざわざ関係を持ちに行くことはありません。
少しややこしい事を言うと、振り回されている思考でもエゴでも何でも良いですが、
それを具体的に「定義付け」しないとそれは存在できないのであります。
例えば「いやあああああ」という音を「悲鳴」と定義付け、さらにその悲鳴が「女性」のものだと
定義付け、ちょっと見に行ったら馬場にジャイアントスイングされてるのが
最近すっかり
このブログのレギュラーになった研ナオコだったとします。
その時点で初めて「馬場にジャイアントスイングされる研ナオコ」が存在出来るのです。
「音」→「悲鳴」→「女性」→
「研ナオコ」と定義付けがどんどん進んで行き、
めでたく
「馬場にジャイアントスイングされる研ナオコ」の誕生であります。
ですから振り回されても、最初の「いやあああ」を定義付けしなければ良いのです。
前も書いたかもしれませんが、この
「定義付け」しない事は源泉掛け流しに触れるコツの
一つかもしれません。
まあこの記事読んだ後だと、これからテレビで研ナオコが出るたびに強烈に
「これは研ナオコだ!」と定義付けを強める羽目になりそうですけど。
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