私の祖父は今から10年ちょっと前に亡くなったのですが、
地元ではそれなりの資産家で知られる人でした。でもって7人もガキを作っていたので
当然
遺産を巡っての骨肉の争いが勃発しました。
私は単なる孫なので直接は関係無いのですが、オヤジが相続した祖父の遺産の
一部を譲り受け、それを現金に変えると結構な額のお金になりました。
当時まだ二十代だった私はそのお金で遊びまくりました。恐らく後にも先にも
あんなに遊んだことはないというぐらい遊びました、まさに
リア充街道まっしぐらです。
しかし、良かったのは最初の一週間ぐらいであとはもう虚しいだけでしたね。
結局、遊びってたまに遊ぶから良いんで、
それが当たり前になっちゃうと
もう作業なんですよ。モンハンが最初は楽しくても気が付くと
作業ゲーになってるのと同じです。
当時は「女遊びって意外とすぐに飽きるんだな」とか女性の事ばかり考えてましたが、
今思うと結局お金って本当に単なる紙切れで、それが決して幸せを運んできてくれるものではない
っつー事に何となく気付けたのかなあとか思います。
お金と幸せ、あるいは異性の存在と幸せって強烈に関連付けてしまうものですけど、
実際は関連付けているからそのように見えるだけで、別に関連性はありません。
お金があるから幸せ、恋人がいるから幸せは、そう見えるだけで別に
両者に関係は
無いのです。
もちろん
お金が無いから不幸、恋人がいないから不幸、も関係ありません。
で、昨日の話だと我々は実は一つなので、本来幸せとか不幸って概念はおかしいんですよね。
エゴの視点だと他者との比較で幸せとか不幸とか判断してしまいますが、
一つであるなら何が起ころうが全然関係無いので、幸も不幸も無いのです。
ですから別に金持ちになろうが、無一文になろうが、恋人が居ようが居まいが
全然OKなんですね。
でも「無一文になるなんてトンデモねえ!俺には女房も子供も居るんだ!」と
思われる方もいると思われます。
しかし、それは既に無一文と不幸というものを勝手に結び付けているだけです。
そして「金持ちになれた、これで女房と子供を食わせていける!」というのも
金持ちと幸せというものを、やはり勝手に結び付けているだけです。
別に
「無一文になった!女房と子供を食わせていけるぜ!」でも良いのです。
数日前に書いた「ケツを掻く度に1万ペソ」と似ていますが、
何故
「無一文になった、女房と子供を食わせていけるぜ!」が異常に感じるのか、という事です。別に「無一文なったけど大丈夫」とか唱えろと言っているのではありません、
いかに
関連付けで構成されているニセモノの世界に生きているかという事に
気付いて頂きたいわけです。
関連付けをどんどん無くしていくと、もう「私」は何処にもいません。
一つである事を思い出さざるを得なくなるのです。
波ではなく海になるのであります。
そして海が、あなたという依代を通じて世界に流れ込むのです。
あなたの全ての行為は、大げさに言えば母なる海の代弁者であります。
言葉や行為を持たない海が、あなたという依代を通じて「今」言葉を発し、行為しているのです。
まさに「今」しか無いのです。
ですからあなたは
将来的な成功は出来ない、出来るのは「今」成功する事だけです。
海から流れ込む行為を、世界に送り込むという「今」やっている行為こそが
至高の行為なのであります。
これって、何かに似ていると思いませんか、そう
イタコです。
本当の意志を持っているのは海であって、我々(と思っているもの)は
単なる仲介者のイタコだったのであります。
なんか最近はわかりづらい記事が続いていますが、
まあ早い話が
「依代なんだから余計な事しなくて良いよ」ってだけの事なんですけどね(笑)
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