「どうすれば”無”だとか何だとか感じる事が出来るのか?」という
メールを頂きましたが、これはもう既に、この質問の中に答えがあると言って
良いでしょう。
「どうすれば感じる事が出来るのか?」と思っているのは、
一体誰か、という事です。
「私は」「どうすれば~」と感じています、この私が思ってるんです。という人も
いるでしょう。
しかし実際は「どうすれば~」という思考でも感情でも何でも良いのですが、
それが
浮かんでいるだけです。浮かんでいるだけのものに、何故わざわざ
「私は」という
主語をつけて話をややこしくしているのでしょうか。
そうすると、「じゃあ何処から浮かんできているんですか?わけがわかりません」というかも
しれません。これも
「私が」「何処から浮かんでいるか知りたい」
「私が」「わけがわからん」と
言っているのと同じです。
何処から浮かんでくるかなんて、それこそ
「知らんモンは知らん」であります。
スピ系っぽく言うなら神の意志でしょう、つまり「私は、私が」と
「私」が探している間は、
決して見つからないのです、しかしそれはすぐ目の前にあるのです。
様々な思考や感情が神の意志から浮かんでは消えていきます、しかしそれは決して
「私」のものではない、「私」はエゴがくっつけた概念、エゴそのものです。つまり幻です。
何が浮かぼうが、何を感じようが、そして
何が起ころうが、それは「私」ではない。「知らん」のです。
ですから
「わけがわかりません」はそのまま
「わけがわかりません」という思考が
浮かんでいるだけで、答えなんか知らんのです。
わけがわからん場所から色んなものが浮かんでいる事に気づく、あるものは感情や思考、
そしてあるものは他人(という概念)や建物(という概念)かもしれません。
そしてそのわけがわからん場所に
最初っから居た事に目覚める、
つまりあなたは初めから神の意志そのものだったというわけです。
ですから神の意志から浮かんだ全てのものには
「神を感じる」とか
「愛に満ちている」とかの
表現がスピ系や宗教では好んで使われるわけです。
もちろん
お約束の「すき家の意志」だったでもOKです。
隣のオヤジのハゲ頭も、道端の犬のウンコも、近所で評判の美人なお姉さんも、
壁に穴が開いている障子も、綺麗に手入れされた庭も、そしてすき家の看板も、
そこらじゅう
神だらけだったのであります。
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