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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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昨日、大阪の堺市で市長選挙が行われました。
選挙好きを公言する私としては、当然見逃せません。

今回は維新の会が主張する大阪都構想がどう判断されるかが
焦点でしたが、現職市長が維新の候補者を退け、とりあえず大阪都構想は
かなりの後退を余儀なくされるようであります。

個人的に橋下さんは政治家としてはあまり好きではないですが、
意味も無く喧嘩腰な所とか、何の前触れもなく慰安婦なんて
アメ公もやってただろとか言い出してしまうファンキーなキャラは
結構好きですね。

堺市は日教組と確かな野党共産党が強い所なので、
まあ維新は負けるだろうなと思ってましたが予想通りでした。

そもそも大阪都ってなんか語呂が悪いしダセえですよね。
セガバンダイに限らず、ダセえ名前の合併話はご破算するのが
宇宙の法則なのであります(?)まあ、それを言うと私が住んでる
さいたま市なんてダセえも良いところなんですけど。

選挙と言えば、この前の参議院で当選したブラックワタミさんと、
中核派の刺客山本太郎さんの国会での激突を待っているのですが、
山本さんは衆議院で落選した時は「もう日本は終わりです!」
言ってたのに、参議院で当選したらしたで「僕みたいなのが国会議員に
なるなんて世も末ですよ」
とか、結局どう転んでも終わりかいと
突っ込みたくなるボケをかまし始め、国会議員というより本来の姿である
メロリンQに戻ってしまわれたようなのでちょっと残念です。
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もう死にたいですとか、死のうと思いますという内容のメールを
たまに頂くのですが、いい加減死んだかと思うと同じ方から
三ヶ月おきぐらいに同じ内容で来るので、何だかんだで
生きておられるようで何よりであります。

今回はシンプルに書きますが、「死のうと思う」のは
年がら年中死のう死のうと思っているのではなく、
例えば朝起きたら株価が暴落してた時とか、女連れのリア充を
見てしまったりした時とか、民主党のポスターを見た時とか、
人によって「スイッチの入る時」が違うと思うのですよ。

結局の所、これは単なる刺激と反応であって、
膝頭を叩けばピョコンと跳ねあがる反射のようなものです。
その反射を押さえ込もうとし、結果押さえ込めないので
ますます「死のうと思う」という悪循環に陥るのであります。

この刺激と反応から抜けるには、「これは刺激と反応である」事を
認識すれば良いだけの話です。

「これは単なる決まった刺激に対する反応である」と認識するならば、
その認識をした時点で「刺激と反応」からは自由だからです。

目にゴミが入れば涙が出るのは当たり前の「刺激と反応」と
認識しているはずです。ですから目にゴミが入って涙が出る事に
対して「もう涙を流すのは止めようと思います」とか言い出す人は
居ないはずなのです。

それが刺激と反応から自由になるという事であります。
「知らんさんのような変な人は痛み等にどう反応するのか、
拷問を受けたらどうなるのか?」
というスーパーハードSMプレイを
示唆するようなメールを頂きました、ありがとうございます。

結論から言うとですね、拷問を受けたら泣いて喚いて失禁して
死ぬ
と思います。運動をしたら汗をかくと同じように、
それに応じた反応が出るだけであります。

「痛くても幸せ」とかはドMならともかく普通は無いです、
痛みは痛みであってそこに在るだけです。

そもそも幸せを感じるという事は、幸せを感じる対象が無くては
ならないので、「何々だけど幸せですよ、穏やかですよ」というのは
スピリチュアルの知識を免罪符のように使っているだけで、
結局の所はその「何々」の部分がいつまでも付きまとうでしょう。

幸せに在る事に「何々」は必要ないのですが、
何々を意識する事で幸せを感じる対象を作っているので、
これは分離を前提とした幸せであります。

拷問されたら「痛いけど幸せ」とかの幸せを感じる対象を必要とする
自我の強がりではなくて、痛いなら泣いて喚いて失禁するのが
水が高い所から低きに流れるのと同じく、
自我の介在しない在るがままの幸せであります。

自我が介在すると「痛い、このままじゃ死ぬ。死にたくない、じゃあ痛くても
幸せを感じよう。」とかなるのですが、まず「このままじゃ死ぬ」というのが
勝手な未来を推測しているだけで、ここから幸せを感じたいけど痛い、
でも痛いけど幸せを感じないと、とか葛藤になって勝手に苦しむのですよ。

ですから「何々だけど幸せです」って余裕こいてるようで実は最も苦しんでる
自我の言わせる台詞なんですね。

自我を介在させずに、運動したら汗が流れるが如く、在るがままの完璧でいるべきです。
「汗をかかずにいるために、汗だくになりそうだけど幸せです」とか妙な葛藤を
する必要はありません。自然に汗が流れるという現象そのものになれば、
不幸は無いのです。







と、ここまで書いてきて、そういや彼女とSMプレイはやった事無いなあと
思いました。まあ彼女の機嫌が悪い時にはいつも馬鹿だのグズだのマヌケだのと
ハードな言葉責めを受けているので、日常即プレイという、いつの間にかマニアックな
方面に突っ走っていたようです。
昨日の記事は少々わかりづらかったので、少し見方を変えてみますが
あらゆる知識や認識は全て「考える能力」ともいうべき領域で
処理されます。

で、自我は基本的にこの「考える能力」を自らであると感じ、
同時に「真の私」より格上に見ています。

あるんだか無いんだかわからん真実の私がどうこうより、
それを考えて納得させる「考えるオレ」の方が正しいのである、という
感じです。

考えるということは、「考えられる対象」があるわけで、
考える能力が高ければ高いほど、真の私とは必ず分離します。

しかし、「真の私は分離ではなく世界と一つでありうんたらかんたら」という
知識に対し、理解するには「考えねばならない」ので、ここにパラドックス的な
ものが出てくるわけであります。

これを打破するには普段「考えていない」領域のものを敢えて引っ張りだし、
考える能力にさらすのであります。

例えばメシを食ってる時や喋ってる時は、舌は非常に器用な動きを
するわけですが、こんなものは考えてやってるわけではないのです。
敢えて舌の動きをメシを食ってる時に「考えて」やってみても、
多分すぐにめんどくさくなって疲れるだけでしょう。

「考える能力」を破棄した方が舌は正確に動いてくれるのであります、
大袈裟に言えば舌がどうのこうのという概念すら無い、つまりお口の中は
世界そのもの
だからこそ、舌は完璧な動きを見せるのであります。
完璧な舌を願うのではなく、最初から完璧だったという事です。

「考える能力」を捨てる事が、自我を幻と見て、やがては自分と思っていた
ものは何処にもおらず、世界であったという真の私に導くのです。

我々はスピ系の知識なんか知らなくても常に世界なのであります。
鼻をほじりたくなればほじるし、ケツが痒いならかく。
そこに指を鼻に突っ込む際のスピードとか、ケツをどれぐらいの力で
かくかとか、「考える能力」はお呼びではありません。

「考える能力」を捨てれば、大袈裟に言えば全てが世界(自分)の現れであります。
車が横から出てくれば、よける。そこに自由意志はありません、車という
刺激が世界から現れ、それに反応し世界がよけるという刺激で答えただけです。

海においては波同士が重なる事も海の働きの現れであり、
さらに大きな波になる事も、海の働きの現れであります。
そこに「考える能力」は存在せず、全てが海であるのと同じ事です。

つまり全ては単なる世界に生じた刺激でしかないのです。
水が上から下へ流れるように、刺激に応じた反応がただあるだけです。
という事は普段「自分だ」と「考えている」事を止めれば
真の私がそこに最初から存在しているというわけです。

そしてそれは知識など無くても、前述したメシを食ってる時や
ケツをかいてる時に、当たり前のように在るのであります。
「スピリチュアル的な気付きとか目覚めとかは、そういった知識があるから
得られるのであって、思考を伴う知識が必要という事は、結局はエゴの
力(思考)が必要なのではないか?」
という大変に鋭い内容のメールを
頂きました。

大事な事なので繰り返しますが、正直言ってこの内容は鋭い、感服致しました。
私のようなアホがここまで鋭い考察に十分答えられるかわかりませんが、
これは頑張って答えねばならないでしょう。

スピリチュアル的な気付きとか目覚めを得るためには、
確かにそのような知識に触れねばなりません。
そして思考によって何らかの気付きだ何だを得るのも事実であります。

そして先人が書いた書籍やら残した言葉から、自らが得た気付きだの
目覚めだのを「確かなものであった」と答えあわせをするかのようにして、
「私はシフクを得た!」とか言ってるのであります。

しかしながら、思考を用いてああでもないこうでもないと
悩むのは自我(エゴ)であります。つまりどこまでいっても「自我が満足するか否か」
であり、結局は観念との戦いであります。スピリチュアルな知識とは観念であり、
観念は自我を満足させる餌に過ぎません。

スピリチュアルな知識とは突き詰めると「本来の私(我々)」に戻るための
きっかけであって、それ以上でもそれ以下でもありません。
絶対的に正しいわけではないし、ましてや人生の指針にするとかトンデモねー事です。

男の子が性に目覚めるきっかけがセーラームーンだったとしても、
女性の絶対的に正しい姿がセーラー服というわけでは無いのと同じです。
私はセーラー服好きですけど。

話を戻すと、「スピリチュアルな気付きや目覚めがある」ときっかけとして
認識するのは別に良いのです。問題は「それを得ていない」と悩み出す事であります。

これは自らの影は実体が無いものと「わかっている」のに何故かそれを
「わかっていない」と思うのと同じです。

ややこしいですが「私は何も気付きを得ていない」と言えるという事は、
その事(気付いていない事)に気付いている何者かがいるという事です。
ですから別に気付こうが何だろうがどうでもよいのですよ。
もっと言えば気付くために何かをするというのも、やりたいならやれば良いですが、
やりたくないならそれで良いでしょう。
最初から全てに”気付いている”わけですから。

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