忍者ブログ

知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

HOME • Admin • Write • Comment
アメリカに住んでる知人が最近占いにハマっているそうで、
LAだかNYだか在住の某占い師に度々占ってもらっているとの事。

私は占いとか全然興味無いので、占いが当たっただの何だのという話も
適当に聞き流していますが、その占い師が言うには「今」に集中する事で
未来の事が見える
との事であります。

その占い師がいかなる意味でそのような事を言っているのかはわかりませんが、
個人的な見解としては、前回も似たような事書きましたが
実は全てはアニメのセル画のように全てが同時に生まれ、起こっていると思います。

なので「今」に集中する、というより「今」が我々の本体のようなものですから、
本体を変えればその他の事は変わらざるを得ないのではなかろうかとも思います。

「変える」というと何かの努力が必要な気もしますが、全てが自己であるという
感覚になれば、必然的に全て受け入れる、受け入れた時点でそれは愛とか許すとかの
言葉で言えばポジティブな感じのモノになりますから、結果的にポジティブ(に見える)
ように勝手になるのでしょう。

水の形を四角くしたいなら四角いタッパでも持ってきてタッパに水を注げば
勝手に四角くなりますしね。
水をいくら弄ったって変わるわけありません。

これを占い師視点からすると「未来が見える」とかの表現になるのではないでしょうか。

まあこれは完全に私の勝手な見解なんで、そのアメリカン占い師がさらに深い意味で
言ったのかもしれませんし、その可能性の方が高いでしょう。





余談ですが女性の占い好きは異常ですよね、
文字通り無いと死ぬんじゃないかと思わせるぐらい熱心に
雑誌の占いコーナーとか読んでるし。

私の彼女も理系バリバリのくせに占いだけは気にしたりしてるので、
「占いなんてモンはねえ、非常にヒカガク的なモノだよ。信じてる奴は
馬鹿だよ、アホだよ、君もアホだよ」と諭したら何故か機嫌が悪くなったので
占いパワーで何とかなりませんかね。
PR
以前、「それ行けAさん」の中で「運動と時間の概念を疑ってどうのこうの」って
事をちょこっと書いたんですけど、これは別に大した事じゃなくて、
運動や時間はある意味自我にとってお馴染み過ぎる概念であり、
これらの見方を変える事で自我を超えるのであります。

前も書きましたが運動と時間というものはセットであって、
運動が発生しないと時間という概念は発生せず、その逆も然りであります。

で、さらに話を進めると運動と時間が生まれるためには空間が必要です。
ボールが進むためには空間が必要であり、空間を進むという運動をボールが
行う事で時間が生じます。

そんなの当たり前やんけ、と思うかもしれませんが、その当たり前を
認識させているのは何なのかという話です。

「私が認識しているのだ」となるかもしれませんが、ではその私とは、
何故に認識できるのでしょうか、空間や時間や運動の概念のおかげで、
「私が認識出来る」のではないでしょうか。

という事は私(の認識)を構成しているものは、あらゆる全てのモノや概念とも
言えるわけです。
つまり(自我が)見たり感じたりしていると思っていたものは、
実は同時に見られたり、感じられたりしていたのです。

自我の目線でいくら答えを探しても見つからないのは、この為であります。
最初から当たり前すぎるほど目の前に在ったからこそ、気付けないのです。
まつ毛を直に見るのが殆ど不可能なのと同じです。

お互いが最初から統一されていたからこそ、全てが成り立っていたのです。

で、さらに話をややこしくすると、それではその「統一されていた!」
認識しているのは何者であり、一体全体何のおかげで、そのような統一されて云々という
電波を発信出来るのか認識を持てるのか、という話になり終わりがありません。

まあこれ以上電波系の話になっても何なので、少し話を戻すと
運動とか時間とかは、結局は自我の目線でのゲームを作動させるための
要素であって、本来は運動しているものも無く、流れている時間も無いと思います。
「それ行けAさん」で未開のオッサンが、車の中から見える風景が動いていると
思っていたのと同じですね。

言い方を変えれば、セル画に描かれたアニメキャラは運動していませんし、
時間も流れませんが、連続して映してアニメの世界という空間を創り、
さらにその空間に運動と時間が発生してくれないと
アニメとして成立しないっつー事です。

運動は単なる模様であり、時間は匂いや香りの類のように感じられれば、
これであなたも今日から高次元存在の仲間入りです。
プリマハムとか適当な名前を名乗ってデビューしましょう。
かなり昔の記事にも似たような事を書きましたが、
ブログ始めて一番驚いたのが「復縁したい」という内容のメールが
一時期わんさか来た事です(九割以上が女性からだった)

そんなに復縁したいならそもそも別れなきゃ良いのではと思いますが、
その辺は触れてはいけないと思われるので、何も言いません。

復縁っつーのはある意味、時間への挑戦とも言えますね。
元カレだか元カノだかとラブラブな頃に戻りたい、つまり過去に戻りたい、
あるいは変えたいという要素があるわけです。

結論から言ってしまうと、これは無理です。
何故なら時間というもの自体がまやかしだからであります。

なので以前の恋人を引っ張り出すのは、ありもしない時間と戦うことになるので
苦しみが増すだけでしょう。復縁云々に限らず、苦しみの元となるのは
ありもしないものをあると思ってどうにかしようとした時に始まります。

この前の記事と被りますが、ありもしない自分を救おうとするから苦しむので
あります。救う救わない以前に、もっと厳密に言うと救う対象が無いのですが、
何故かあると思ってしまうので話がややこしくなってしまうのです。

で、話が戻りますが復縁っつーのは、まず時間というものありきであり、
時間が実は無い以上、復縁というのはありません。

復縁ではなく新たなご縁を結ぶのであります。
復縁しようとしている元恋人でなく、自我の目線からすると元恋人に見える物
新たにお付き合いするのです。

これは話だけ聞くと非常に理解し難い電波系の話と思われますが、
例えばファミコンのスーパーマリオが、ある地点からある地点へ動く際には
実際はドットのパターンが変わるだけなのですが、
マリオが動いているように見えるのと同じです。

最初の地点にいるマリオと、次の地点にいるマリオは別物なのですが、
同一人物としか認識出来ないわけですね、マリオが歩いたという
「運動」の概念を作り出すと「時間」の概念が必然的に出てきます。
そしてそれらを事実として認識するためには、ある地点からある地点に
「動いた」マリオが同一人物でないと困るのであります。
こうして望み通りマリオは同一人物として認識されます。

話が復縁から逸れましたが、結局何一つ動いている物などないし、
過去から未来へ流れるものもありません。
「過去の自分」と思っているものがあるのも、先ほどの「動いたマリオは
同一人物でないと困る」のと同じで、そうでないと自我が困るから
「過去の自分、未来の自分」を頑なに信じようとしているのです。

実際はA地点に立っているマリオも、B地点に立っているマリオも
同時に存在しているのであります。

つまり全ては最初から始まりも無ければ終わりもない永遠です。
永遠とは言葉だけ聞くとずーーーーっと時間だけが過ぎていくような感じですが、
そうではなくて時間を超越した「今」であります。

話が完全に復縁置いてけぼりになりましたが、
復縁ではなく実は新たな縁しかない、という事にまずは気付く事です。
映画「プロメテウス」を観てきました。
以下ネタバレになるので未見の方は見ない事をオススメします。





この映画って実は「エイリアン」シリーズなんですよね、
監督も「エイリアン」のリドリー・スコットだし。

私は「エイリアン」シリーズはかなり好きなので
普通に面白かったですけど、「エイリアン」に興味無い人が観ると、
単なるSFモンスターパニックを見せられただけという感想になるかもしれません。

CMなんかだと「人類の起源がどうのこうの」言ってますが、
人類の起源を探しに宇宙へ飛び立つ大スペクタクルSF映画、
いわゆる川口浩探検隊とか藤岡弘探検隊の宇宙版みたいのを期待してると
まず間違いなく肩透かし食らいます。

あくまでもこの映画は「エイリアン」ありきの映画であります。
そういう意味では初心者お断りの感が強いですね。

ポスターのビジュアルとかでも、敢えてエイリアンを前面に出さずに
グラディウスのモアイみたいのばっかり出してますが、内容は
新たな「エイリアン」シリーズの序章という位置付けです、
「エイリアン」が好きな人ならどうぞと言った感じ。
何回か書いていますが、受け入れろだとか許すのだとかの表現は、
やはり大変に抵抗があるようで、「受け入れれば救われるのか」的な
方向に考えたがる人が多いようであります。

まあこれは当たり前の心理で、苦しさから逃れるには受け入れるしか
無い的な感じに捉えてしまうのもしょうがないと言えばしょうがないですよね。

なんで受け入れろだ何だというのをオススメ(?)するかと言うと、
結局は世界というものは同時に存在しているからであります。
テレビゲームで言えば、プログラム上にゲーム内のあらゆるデータが
同時に存在しているのと同じです。

つまりキャラクターの誕生も死亡も、レベルが上がったとか呪われただのも、
キャラクターから見れば時間と共にそれらの事柄が起きてくるようにしか
見えませんが、実際はプログラム上に全てが同時に存在しているからこそ
なのであります。

つまり喜んでいるキャラも苦しんでいるキャラも、生きているキャラも死んだキャラも
同時に存在しているというわけで、この事を体感すると、いわゆる「自我」は
どうでも良い存在となっていきます。

自我というものはある一点に焦点を定めないと存在できないわけで、
あらゆるものが同時に存在していますとなると、自我は居場所を失ってしまうのです。
で、残ったものがいわゆる本当の私とか何だとかというものです。
つまり何時でも何処でも時間を超えて存在していた意識であります。

受け入れろだ何だっつーのは、結局受け入れる事で
実は全ては同時に存在しているものだという事に気付くためです(多分)

受け入れなくても何かの拍子に体感しちゃうケースもあるみたいですが、
やはり全て受け入れた後に大きな気付き的なモノがあるようであります。

まあ前回も書きましたが、この気付きも厄介なモンで、気付きに執着すると
また話がややこしくなるのですが、「気付いていない」と「気付いた」も
同時に存在しているので、やっぱりそれらは超越するものだと感じます。

話を戻しますが、受け入れないと、結局苦しい事と戦い続ける自我が
ずっと居座る事になります。

なので「受け入れれば救われる」というのは表現を変えて戦い続けているだけで、
これは全然受け入れてないです。
「受け入れれば救われますか?」という問いには「(自我は)救われない」が答えです。

カレンダー

03 2026/04 05
S M T W T F S
1 2 4
5 6 7 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 22 23 24 25
26 27 28 29 30

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
知らん
性別:
男性
職業:
食う寝る遊ぶ
趣味:
超合金魂
自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

合体と恐竜は男のロマン

メールはsiranwa22☆yahoo.co.jpに
☆を@に変えてお願いします

バーコード

ブログ内検索

P R

アクセス解析

Copyright ©  -- 知らんモンは知らん --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Material by もずねこ / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]