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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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ここ最近はずっと全ての事は源泉から湧き上がってくるだけだという
話が延々と続いていますが、源泉はあなた自身であります。

ですからこれも度々書いていますが、自分の顔を鏡などを使わずに
見ることが絶対に出来ないのと同じように、源泉がどういうものを湧き出させるかは
出てきてからのお楽しみ状態であって、それを色々とコントロールしようと
しているのはエゴです。

例を挙げればあなたが歩くときにどのような角度で踏み込んで
どのような感じで足音がするとかはいちいち考えないはずです。
「歩く」という意図が発生したら、もうそれで十分に「歩く」「歩いている」という
シチュエーションが湧き出ているはずです。


もしかしたらタラちゃんのような足音が出るかもしれませんが、
もし本当に出たら、まさにエゴの想像を超える源泉パワーの偉大さを知る事になるでしょう(?)

ですから頑張らない、期待しない、何もしない3無い運動が基本なのです。
エゴの考える範囲で頑張っても、しょうがないのであります。

これは「考えないようにしよう」というわけではありません、それだと「考えない」事を
目標としているエゴが出てくるだけです。

感覚としては、起きている時でも寝ているという状態と言えるかもしれません。

そりゃオマエ寝ぼけてんじゃないか、というツッコミが入ると思いますが、
寝ぼけてるのは寝ぼけていても覚醒寝ぼけというか、目を開けたまま寝ているというか、
寝ているときは完全にエゴも思考も止まっているので、その状態がずっとキープされている
感じと言えるでしょうか。

その感じになるには、瞑想が効果がある人もいるでしょうし、なんとなくこのブログや
他のサイトを見ているときにわかる人もいるかもしれません。

いずれにせよ、コツとしてはなんでもアバウトに捉える事です。
アバウトに捉えるということは、早い話が起きてくる現象に対し細かく思考しない事に繋がります。
つまり言葉を変えると極めて抽象的な世界観に生きるという事でもあります。

私もはっきり言ってかなりいい加減かつアバウトな性格ですが、個人的には
私のようないい加減なオッサンの方が、結構うまく体感できるのかなあとか思っています。
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「ネガティブな感情や言葉は、願望の実現などにはあまりよろしくない」という
感じの事が書いてある本とかもありますが、私個人としては別に良いんじゃないという
アバウトな感覚であります。

何故ならネガティブな言葉や感情は本来存在しない「自分」「私」に投げかけられているのが
殆どであります。「いや、私は憎いあん畜生に呪いの言葉を投げかけています」という
人もいるかもしれません。が、「私」がいないという事は「あなた」もいないという事です。

「私」が存在するためには「あなた」が必要なわけです。
全てがひとつになってしまうと、もはやそういった「区切り」が無くなります。

区切りが無いということは、言葉で説明するのは困難ですが、全ては意識の投影であるという
事です。
つまりぶっ殺してやるとか殴ってやりたいとか思っていると、
実際にそのような事柄か人物かはわかりませんが、それが湧き出てくるというだけです。

ですから「憎いAさんに呪いの言葉を送っている」というのはムカツクとか死んで欲しいとか
意識されたことが湧き上がっているだけです。


たまたまその「憎い」を演じる「人間役」として源泉から選ばれしものがAさんだったと
いうだけです。何故Aさんなのか、キャスティングミスではないか、とかエゴ視点から
野暮な事は言わないでください、源泉のキャスティング能力は完璧なのです(多分ね)

「じゃあ、やっぱり私にとって憎たらしいあの野郎は源泉の選択だったんだ、
絶対にあの野郎をぶっ殺してやる」とか物騒なことを思うかもしれませんが、
度々書いているように「私」は存在せず、源泉が真の私なのです。
ということは「憎いあの野郎」は、あなたそのものの意識の投影として
登場しただけで、あなたには何の関係も無い幻影なのです。


エゴ視点での「私」が登場すると、途端に幻影の「あなた」(憎たらしいあの野郎)も
実体を持ったかのように「私」(エゴ)が錯覚し、「私」(エゴ)と対立するかもしれません。
しかし「私」がいなければもはや全てが一つにならざるを得ないので、対立も何もないのです。

ただ、起こっている。それだけであって、あなたがどうのこうの思い悩む必要は無いのです。

ですから幻影であるとわかっているなら別にネガティブな言葉をブツブツ言ってても
良いと思います。「ネガティブマン」というフィルムを入れたら「ネガティブマン」
上映されるわけです。その上映されている映画にマジになってギャーギャー喚くのは
おかしな話です。

ですから同じように「ポジティブマンタロウ」とか「帰ってきた幸せマン」とかの
フィルムを入れれば、そのような映画が上映されます。
本当に、ただそれだけです。

少し話が脱線しますが「意識の投影」の感覚は恋愛の初期の頃に似てるかもしれません、
誰でも恋愛の初めの頃は幸せいっぱい夢いっぱいで世界がバラ色に見えたりします。

ポジティブな意識によって源泉から湧き出てきた「幸せいっぱい」の
役割を演じるためにキャスティングされてきたのがあなたの彼女というわけです。
なんでもっと美人をキャスティングしてくれなかったんだとか言ってはいけませんよ。

まあ、私は恋愛する度に言ってたんですけどね。
前も書いたと思うんですけど、「自分」と思っているものは
エゴがそう思っているだけで実際は存在しないものです。
「存在しない」というと語弊がありますが、「存在」を意識した時だけ
「存在」として湧き上がってくるわけです。

「自分」は存在しないのか、なるほど!と頭で理解しているにも関わらず、
何故か「何々を実現させたい」とか「これをこうしたい」とか思う時だけ、
どういうわけか「自分」がいる事前提でやろうとする方が多いようです。

例をあげると「給料もっと欲しい」という願望を抱いたときに何故か「今の職場で」という
前提を無意識に思っている場合が殆どです。

別に今の職場で無くても良いではないですか、もっと言えば職場が地球でなくても
月とか火星とかM78星雲とかでも良いではないですか。

しかしながら「給料」は「自分」が貰うものだ、という強力な固定観念があるために
「職場は今の通いやすい所で・・・」とか色々と考えてしまうのも
まあ無理はないかなと思いますが、これでは結局のところ「私」(自分)という物体がいて、
その物体が外の世界をあれこれ変えようとしている
という完全なる分離を前提とした
ものであります。

そうではなくて、「自分」はいないのですからあとはもう「心地良い」世界を
創ってしまえば良いのです。そうすると、「わかった、心地良い世界を創ります。まずは
ムカツクあの上司が死んだ事にして・・・」とか思った人、既に分離しています。

なぜ、「自分」がいないのに「ムカツク上司と働いている自分」がいるのですか、
それを創っているのもあなた自身なのです。

「あなた」の存在なんて無視して良いんですよ。
もしかしたらあなたは今、自分自身の事を非常に矮小な存在だと思っているかもしれません。
そして「矮小な私」を変えたくてナントカメソッドを色々試しているのかもしれません。
しかしそれらは全てまず最初に「矮小な私有りき」でメソッドを試していたに違いありません。

「矮小な私有りき」でやってれば同じ所をぐるぐる回るのは当たり前なんですよ、
どんなにすごいメソッドを試そうが「矮小な私」というエゴの設定がある限り、
その設定なりの展開しか出てこないのです。

「俺は熊だ」という設定なのに「鳥のように空を飛びたい」というのは無理があります。
だったら「私はカモメ」という設定に最初からすれば良いじゃないですか。

我々はまさに刹那の瞬間ごとに無意識に設定を繰り返しています。
この「設定」とは自分が住んでるところは地球だとか、自分の周りには空気があるとか
人間とは腕が二本で足も二本だとか、ガリガリ君は今年で30周年だとか、
そういった本当に諸々全ての設定です。

無意識に設定を繰り返している事に気づかないと、エゴが勝手に決めた設定を基準にしてしまいます。
基準もいらないし、「私」という設定すら必要ないのです、というかそんなもの最初から
無かったのです。勝手に決めた基準に無意識に従っているから「自由意志」があるという
勘違いを起こすのです。

自由意志が無いと気付くことが、実は真の自由に目覚める事であります。
あとはもう湧き出てくる展開にあーだこーだと縛られる必要はありません、
エゴ視点から見た「あなた」がいなくなった時、完全に自由な真の「あなた」に
気付くことでしょう。
今日の、というより既に昨日ですが、ダービーを久々に取りました!約20万円ゲットであります。
実にチーズ牛丼特盛340杯分という泡銭を得て、当分は飢え死にせずに済みそうです。

やはり昨日の記事で武豊の名前を出したのが良かったのでしょうか(まあ当の武豊騎乗の
馬は、いつの間にか馬群に飲まれてたんですけど)

今回は個人的には良い事でしたが、結局良い悪いなどはエゴ視点のちっぽけな感覚に
過ぎません。
ですからその時の感情にいちいち振り回されないことです。
何が湧き出てきているのかを、観察者として眺めていれば良いのです。

万馬券を当てて嬉しさのあまり裸踊りをして、お巡りさんに逮捕されて死刑になっても、
眺めているだけです。逆に全財産をスってお馬で人生アウトになっても、やっぱり
眺めているだけです。

裸踊りをして逮捕されて「ああ、どうしよう。裸踊りじゃなくてムーンウォークにすれば良かった」とか
あーだこーだエゴが喚くのが振り回されるという事です。

嬉しいとか、楽しいとか、辛いとか、苦しいとかが湧いてきて、それから何が起こるのかを
完全に観察者として眺めているだけという事です。

ですから悲しかったりしたら、それをそのまま受け入れて全てを委ねれば良いのです。
わんわん泣き出すかもしれません、あるいは悲しみのあまり逆に笑い出すかもしれません。
どのような反応が沸き起こるかも、全て傍観していれば良いのです。

願望実現系のメソッドにハマると、どうしても苦しみや悲しみを「ネガティブ」と判断して
排除しようとする傾向があります。
あるいは「ナントカメソッドをやっているのだから
ネガティブな事など起こるはずが無い」とか動揺してしまう事もあります。

そういった「何とかしよう」という事が、さっきも書きましたが振り回されている状態です。
語弊のある言い方かもしれませんが「何とかする」事なんて出来ないんですよ。
エゴには何の力も無いのですから、エゴ視点で「何とかする」事は不可能なのです。

そうではなくて、良いとか悪いとかを勝手に判断しているちっぽけなエゴより、
ここ最近ずっと同じ事書いてますが、全てが湧き出てくる源泉へと還りましょうという事です。
「源泉かけ流し」の表現を思いついてから、調子こいてずっと「湧き出てくるよ」という話を
続けています。今日も似たような話なのでいい加減飽きたという人もたくさんいると
思いますが、空気を読まずに続けます。

昨日も書きましたが、現象が湧き出てくる時にどのような人が、あるいは物が、あるいは空間が
どんな役割をするかは、エゴが知る事の出来る領域ではありません。

「でも、それを知りたい」というエゴの欲求によって、せっかく源泉から湧き出ているものに
余計な解釈を付けてあーだこーだと思い悩んでも、知る事が出来ないのですから
疲れるだけで何の得もありません。

例えば「豊かさ」が欲しい、という願望が湧いてきたら普通はまず「お金」が入ってくるのでは
ないか、とエゴの解釈であればそう思う事が殆んどでしょう。

しかし、源泉はもっとすごい「豊かさ」を湧き出させるかもしれません、というより大体において
エゴの勝手な解釈より大きなものを湧き出させます。それは願望の根っこに
直結しているものが殆どです。

「豊かさ」を求める根っこが安心感であるなら、とても安心できる何かが湧き出てくる
でしょう、それはお金ではないかもしれません。
しかしそれが湧き出てきた時にとても安心感を与えてくれる何かが現れます。

「豊かさ」がお金を使って何か大きなプロジェクトをやりたい、という野心的なものを
秘めているのなら、チャレンジ精神を掻き立てられる何かが湧き出てくるかもしれません。

「豊かさ」が万馬券を当てたいなら、武豊が家に来るかもしれません。

結局、願望云々というより、思ったことは全部実現しているのです。
しかも源泉がエゴのチンケな解釈など及びもつかないレベルで、
大袈裟に湧き出させているのです。

実はそれに気付いていないだけなのであります、何故気付けないのかというと
エゴの勝手な解釈に耳を傾けるクセがあるからです。

昨日も書きましたが、源泉はあなたの破滅などは望んでいません。
源泉はイコールあなたなのですから、それは有り得ないのです。
ですから全部委ねてしまえば良いのです。

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職業:
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趣味:
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自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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メールはsiranwa22☆yahoo.co.jpに
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