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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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ここ最近、世界情勢がキナ臭くなってまいりました。
やはり政治と戦争は男のロマンであります。

ウクライナの親ロシア政権を「俺たちはEUに入って金持ちになるんや!」
反政府組織がクーデターを起こし、政権をブッ飛ばしたと思ったら、
氷の帝王プーチンが激おこで、今度はクーデター側をブッ飛ばす気満々であります。

果たしてスピリチュアルな愛の力で戦争を食い止める事が出来るのでしょうか!?

結論から言うと、無理です。
愛の力よりその辺のアイドルの歌でも戦場に流した方が良いと思います。

この前の記事でも書きましたけど、愛を持って云々しても、
ムカデに手を伸ばせばムカデは逃げるか、噛み付いてくるかであって
いきなりムカデが愛に目覚めて空を飛んだりはしないのであります。

つまり明確な差別化が存在するのであり、そもそも”愛を持って”なんて
エゴむき出しの上から目線も良い所であります。

基本的に私は愛がどうのこうのとあまり書かないようにしています、
愛という文章だけだと、どうしても自我レベルの愛情しか想像できないからです。

言ってみれば明確な差別化を認める事こそが、まさしく愛であります。
ですからムカデが出てきたらその場でブッ叩くか、
あるいは何とかして捕まえて外に放り出せば良いのです。

ムカデが人を咬む様に、人類は争うものなのであります。
それこそ国家、民族、宗教といったものに愛や信念を持ち、
自爆テロを行い、武器を持つ人々はいくらでも居るのであります。

確かにそういった人々の思想はエゴむき出しの愛や信念かも
しれませんが、人類とはそういうものなのであります。
そういった明確な差別化を認める事であります。
鳥は飛ぶもの、馬は走るもの、人は戦うものなのです。

そうする事で初めて実在という「外側」と思考や感情といった「内側」
越えて、全てを抱擁するようになるのです。

そうすると、今まで自分と思っていた線引きが消えていきます。
今まではこの線からこっちは自分、外側は別、と捉え
外側から自分側に向かってくるものを批評し、好ましいと思えば喜び、
嫌だと思えば悲しんできましたが、線引きが消えれば
全て自分となるのであります。

そもそも最初から自分など居なかったのです。
実は最初からずっと、自分の顔を見続けて来た事を知るでしょう。
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テレビ見てないんで実はよくわかってないのですが、
ビットコインなる仮想通貨による詐欺(?)が話題になっていますね。

まあお金ってのは本来価値が無いし、仮想通貨だろうが子供銀行券だろうが
価値があるという大衆の思い込みさえあれば何でもビットコインです。

この思い込みと、さらに一般大衆が金融経済と実体経済という概念に疎いと
いう事実を利用して、一部の資本家は大儲けしたりするわけですが、
まあそれは置いときましょう。

基本的にお金っつーのは信頼を示すコミニュケーションツール(?)みたいな
モンです。ある特定のモノに対し価値があると感じ、さらに信頼があれば、
その信頼を示すツールとしてお金が発生するわけです。

逆に言えば信頼度MAXなら、お金を払わなくてもモノは勝手に
入ってきます。

仮に私がバシバシ予言とかしまくって、バシバシ的中させて
「ちょっと皆さん、誰か私にカルピス一年分ください!」
言えば、恐らく誰かしらからカルピスが送られてくるでしょう。

つまりお金という媒体が無くてもカルピス一年分は”購入”出来るんですね。
まあ購入というよりただ単に恵んでもらっただけな気もしますが。

何を言いたいかというとですね、100万円という数字があっても
100万円そのものに価値があるわけでは無いのですね。
しかし多くの人は100万円という”お金そのもの”に価値があると
思ってしまう、ですから悪い金融業者とかに利用されてしまうわけです。

話がスピ系と全く関係無くなりましたが、お金とかを実体の無い幻想であると
わかった(はずの)スピ系の人はセミナーとかでなるべく現金にこだわり、
スピリチュアルと縁遠そうな資本家は実体の無い金融経済を利用するってのが
面白いとこですよね。
「家にムカデが出たのですが、全ては自分であって愛だけなのだと思い、
愛を持ってムカデに手を伸ばしたら思い切り噛まれました。
どうすれば良かったのでしょうか」
というメールを頂きました。

正直、これを読んだ時はリアルにお茶吹き出しましたが、
このような場合は速やかに新聞紙でも丸めてブッ叩けば良いんです。

ただ、今回のメールで「世界は自分である事がわかったが、
結局元に戻ってしまう」
という人が多い理由みたいなのが何となく
わかったような気がします。

世界は自分であるし、分離は無い、のは確かにそうなのですが
「分離」と「差別化」は明確に違います。

どうも「分離」と「差別化」を混同している方が多いんじゃないでしょうか。

どう見ても人間とムカデは違う生き物です、愛を持って接した所で
ムカデとファミコンで遊ぶ事は出来ませんし、ムカデと会話する事も出来ません。

これは生物同士だけではなく、例えば人間の体の機能にしても
足の裏で味を感じたりしないし、腕にイヤホンつけて音楽を聴いたりは出来ません。

つまりあらゆるモノ、概念等は明確に「差別化」されているのです。
「差別化」されているモノに気付けず苦しむのが「分離」であります。

普段の感情や思考も、結局は昔からの習慣や住んでいる環境で
ほぼ決定されます。なので感情や思考は「私」ではない「私」を
支配するものではない、と明確な「差別化」を知る事です。

あらゆるものは差別化される事で初めて成り立つのであります。
そのあらゆるものを成り立たせている見えないし、触れる事も出来ない
構成要素こそが真実の私です。
差別化があるからこそ、全ては「私」なのです。

で、ちょっと話が脱線しますが、よくスピリチュアルの書籍とかで
「生まれたばかりの赤ちゃんのような純粋さ」を賞賛している例が
たまにありますけど、私はこれはおかしいんじゃないかと思います。

赤ちゃんてそれこそムカデでも何でもすぐに触れて口に持っていくじゃないですか。
で、噛まれてワーワー泣いたりしてますが、何で噛まれたとか
何で痛いとかもわからず、つまり差別化を受け入れずに苦しんでいる姿と
思うのですよ。

ですから私は赤ん坊ってのは究極の分離状態にあると思うのですが、
まあこの辺は何か哲学的になってしまうのでどうでも良いですし、
何を言いたいかと言うと私は子供は嫌いですって事です。




この前も親戚に子供が生まれたんですが、空気を読めない私は
「子供って全然可愛くないな」と皆の前で呟いてしまい、
親戚中からフルボッコされて少し凹んだのでした。
スピリチュアルの書籍なんかによくある「意識を鑑賞する」事は
とても有益であります。

しかし、意識を鑑賞するのは、当然ながら意識を眺めている何者かがいるわけで、
結局は分離を前提にしているのですが、エゴから距離を置いて意識を鑑賞できると
いうのは、それはそれで優れたスキルであります。

が、意識を眺めていると、意識の鑑賞者がふとしたはずみで意識自身に
感動してしまう事があるのです。
職場や学校の大して美人でもない女性をボケッと眺めていたら、
ちょっとした表情や仕草に妙に魅かれる事があるのと同じです(?)

あらゆるものは意識であり、それらは己自身でもある。というのは
それはそれで良いのですが、「意識が意識に感動して」しまうと、
猛烈な高揚と感動と共に全てとの一体感を感じるものです。

しかし元々一体なのですから”一体感を感じる”のはおかしいのですが、
至福感がパねえので、そんな事もどっかへスッ飛んで
「世界はエゴによって病んでおります」とか突然救世主チックな事を
言い出すケースも多いのであります。

世界との一体感を感じたのに世界は病んでおりますってのは
おまえが病んでるんじゃないか、と言いたくなりますが
意識が意識に感動する至福感はあまりに素晴らしいので、
どうしてもそれ(至福感)を世界中に広めれば世界は平和になると
感じてしまうのです。

しかし世界には戦争もあるし地震もあるし原発もあるし、
日本にも相変わらず共産党はあるし民主党もあるのです。

問題はそれらが外側にあると感じる事です。
意識が意識に感動してしまうと、どうしても至福が外側にあると
感じてしまいます。まあ至福を感じた「私」が居たのだから
そう思うのは当然なんですが。

しかし全ては外側から提供されるのではなく、内側に在るのです。
全てに対しての気付きそのものに落ち着く事です。

そうすれば昨日も書きましたが、描写が出来ない何か、
例えば眼球は眼球を観れませんが、しかし観ているのは眼球であると
いう事と同じ”事実”を知るでしょう。
最近、某コンビニのフォアグラ弁当に対してシーシェパードみたいな人たち(?)が
抗議してフォアグラ弁当が中止になったそうですね。

動物の命がどうのこうの言う前に、そもそも命とかってあるんでしょうか。

例えばウナギだのマグロだのの養殖に成功!世界初!とか、たまにニュースで
やってますが、この養殖された魚は確実に人間のごはんであって、
早い話がごはんが泳いでいるだけとも言えます。
同じように高価な松坂牛とかも、ごはんが歩いているだけであります。
ごはんが泳いだり歩いたりすれば、それは命なんでしょうか。

いつものように話を強引にスピ系に持っていくと、
結局は命という概念自体が幻なんですね。

本質的に全てのものはクラウド上のデータみたいなモンで、
ゲームで言えばゲームのキャラがディスプレイに映し出される事で
初めてゲーム上の「命」あるキャラとして登場します。

それ以外にもそのキャラがキャラとして成り立つにはその他のデータ、
仮にドラクエなら「バラモスがあらわれた!」というメッセージと、
戦闘の音楽と、バラモスのグラフィックがあって
初めてバラモスはバラモスという見せ掛けの命を得るのであります。

つまりクラウド上のデータが様々な要素を被って”擬態”しているだけ
なのです。データ自体は擬態しなければ知覚も出来ないし体感する事も
出来ません。しかしながらデータは常に”在る”状態なのです。

ですから全ては一つであって、生きてもいないし死んでもいないのです。
バラモスは倒されてもデータとして”在り続ける”のであります。

データが様々な要素を被って見えるように擬態しただけの
バラモスを倒した所でバラモスが滅んだわけではなく、
元の見えない状態に戻っただけです。
バラモスの命なんてものは無いし、命を奪ったものも居ません。

話を戻すと、全ての生物は生物として見る事が出来ますが、
生物に生命は宿ってはいないのであります。

もちろん私にもあなたにも生命なんてありません、生命があるように
振る舞ってはいるでしょうけど。それはゲーム上のバラモスが
呪文を唱えたり火を吹いたりして命があるように動いているのと
本質的に何ら変わりはありません。




まあ何を言いたかったかというと、私はフォアグラ弁当食べたかった、
という事ですね。

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