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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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内容的には昨日の続きっぽくなりますが、そもそも何で常に不安や苦しみを
抱えている人が多いかというと、経験者という立場にいるからであります。

経験者という立場にいる以上は、様々なものからボコボコにされることは避けられません。
少しややこしいですが例えば犬に吠えられたら、「吠えられた」という経験に基づいて
経験者は快や不快を感じるわけで、その快や不快に基づき様々な行動を起こします。

ぶっちゃけて言えば「自由意志が無い」事を実感出来ないのも、この「経験者」が
妨害しているのです。
経験に基づいて動いているのだからこれはアタクシの意志だ、と思うわけですね。

「経験」は「経験者」を常にフルボッコにするのであります。
あるメソッドをやっても効果があったり無かったり、自由意志が無いと聞いて不安になったり
喜んだり、わしゃもう疲れた、となるわけです。

しかししかし、今度はその「もう疲れた」を経験者として捉えると、今度は「疲れないように」
新たな終わりなき旅へ出てしまいます。

前述した「経験は、常に経験者をボコボコにする」とはこういった事です。
しかしながら「経験と、それを経験している私」は感覚としては余りにも当然過ぎる感があり、
この分離に気付くのは意外と困難です。

ですが、考えてみれば経験とは経験者が居て初めて経験となります。
つまり経験を評価し、経験者という自我が生まれるのであります。

しかし自我は幻であります。とすると今まで見たり聞いたり感じたりした事は
全て「単なる現象」であり、それを批評する経験者は居ないのですから
全てを「受け入れてしまう」"状態"が実はデフォルトなのです。

そしてそれら受け入れたものを経験する者が居ないのですから、
結局あらゆるものは全て自分だったのであります。

で、話がいきなり下ネタになりますが、これはぶっちゃけヤッてる時と同じです。
アダルトビデオを集中して見たり、ヤッてる時は、何処にも経験者は居ません。
あるのは快楽と至福だけです。ダイレクトに「経験」は存在しますが経験者は居ません。

創聖のアクエリオンでも合体すると気持ち良いとか一万年と二千年前から愛してるとか
言ってたじゃないですか。様々なものを分離してきた経験者が居なくなった今、
一万年と二千年前にヤッてた経験はイコール自分ではないのでしょうか。
八千年過ぎた頃にヤッてたのも自分ではないのでしょうか。
一切の経験者が居なくなり、実は生きてもいないし死んでもいない永遠こそが
自分ではないのでしょうか。



下ネタからどんどん話のスケールが大きくなりましたが、話が膨らみ過ぎるのもアレなので、
とりあえず合体最高という事で今回は終わりです。
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「自分は、実は存在しない」というのは難解で、これを理屈で捉えると大変に迷います。
例えば「自分とは知識や情報の集まりであってうんたらかんたら」というのは
半分は正しいですが半分は間違っています。

スピ系に限らずあらゆる知識の厄介な所は、「経験者」という概念を生み出す事です。
「自分が居なくてどうのこうの」と聞くと、必然的に「それを経験したい、
しなくてはならない、経験者になりたい」と思ってしまいます。

まあこれはよく考えなくても当たり前の事で、経験が有るからブログだ何だに
書く人間が出てくるわけで、それを読んだ人が同じような経験をしたいと思うの
当たり前ですよね。

しかし、この「経験者」は曲者であります。
何かを経験するとは、それを経験する前と後が必要になってきます、
つまりどうしても「経験する私」と「経験」が分離します。

「私は居なかった」なら「私の不在に気付く前のアタクシ」と「私の不在に気付いた後の
アタクシ」が必要なのです。

以前、「全ての行為は分離していくだけ」みたいな内容の記事を書きましたが、
まさにありとあらゆるメソッドの類いがこの罠にハマります、というよりハマらざるを
得ないのです。

そして皮肉にもメソッドを行う事による「経験」体験が分離を起こし、
苦しみを生むのであります。「経験」とそれに伴う「経験した私」の境界線で戦いが
起こるわけです。
「実践した(という経験)」と「実践したけど何かしっくり来ない私」が
原因で苦しむわけです、これは仮に「実践してうまく行った」場合でも今度はその
「成功した経験」を追いかけるので同じことです。昔から争いは領土の境界線で起こると
決まっているのであります。

この苦しみを終わらせるには、「経験者」が居なくなれば良いのです。
というより最初から経験者など何処にも居ません。
あらゆる経験は経験であって、ただそれだけです。

炎が燃えていても炎があなたであって、炎にビビる、苦しむという「経験者」は
居ないのです。「経験者」である事を止めましょう、すぐに苦しみを経験している者は
消え去ります。

で、話が戻りますが「私が居ないのを体感したい」なら何をやっても良いし、
何もしなくても良い
のです。何故ならその「経験」を通じてあれやこれや騒ぐ
「経験者」は最初から居ないからです。
前回も書きましたが、何かから逃れるために感じきるとか受け入れるとかを
行うわけではありません。この辺は誤解を生みやすく、ややこしいので
今回は補足であります。

なにかネガティブな感情や思考を感じた、ここまでは良いのです。
問題はここから「ではこのネガティブを感じ切ろう、受け入れよう、
愛してるでござる」とかやり出すのがスピ系の悪癖みたいなものであります。

感じるとか受け入れるは"行為"ではありません"状態"です。

そもそもネガティブを感じた、と自我が言うのはともかくとして
その直後に「感じきれ、受け入れろ、うんたらかんたら」と
"指示"している謎の声は一体何なんでしょうか。

自我に命令している黒幕がいるようであり、しかも自我はその声に
素直に従って"感じ切ろう""受け入れよう"と始めます。

昨日、第二次安倍内閣が発足したので強引に政治ネタに絡めると、
昔の小沢一郎みたいな黒幕っぽいオッサンが、自我が感じた事に対して
瞬時にこうしなさいと告げ、自我はそれを何の疑いもなく
「小沢先生最高!!感じ切ります、受け入れます、愛してます」
やっているようなモンです。

これはもう完全な猿芝居です。
なんの事はない、この猿芝居が"真実"と思い込まされていただけです。

思考は飽きることなくこのような猿芝居を常に行っています、
思考を止めるとは猿芝居を止める事です。

芝居が終わったら、初めて真実が顔を出します。
芝居という"行為"は終わりを告げ、本来の"状態"になるのであります。
全てを認めるとか受け入れるとかは、意外に難しいものであります。
何で難しいかっつーと、やはり現状の問題なり何なりを解決する、
または克服する(しなくてはならない)というある種の責任感みたいのを
自我のレベルで持ってしまうからかもしれません。

しかしこれも以前書きましたが、自由意志があると勘違いしている事から
起きる葛藤であり、苦しみです。

例えば、歯磨き粉のチューブの口が星の形とかになってれば、そこからブニュっと出てくる
歯磨き粉は星形ですよね。歯磨き粉は自分の意志で星形になっているのではなく、
星形として出てくるしかないのであります。
つまり歯磨き粉に自由意志なんてありません。

これは見方を変えれば重圧からの開放でもあります。

何故なら星形で出て来る歯磨き粉に一切の責任は無いからです。
歯磨き粉が星形で出てくるのは馬鹿だったわけでもなく、
運が悪かったわけでもなく、過去の因縁からでもなく、
ただ単にチューブの口が星形だったから、というだけです。

つまりこれを当てはめてみれば、あなたが(正確に言うとあなたの自我が)
不幸を感じているのも、メソッドのやり方が悪いのかもとか心配しているのも、
何だか知らないけど泣きたい気分だとかも、全てにおいて責任は無いのであります。

つまり何を感じていようが考えていようが、チューブの口が星形だったごとく「そういうもの」
なのです。歯磨き粉が、どうして私は星形で出てきてしまうのとか悩む必要は無いのと
同じで(チューブの口が星形なんだから悩みようがないですよね)何も悩む必要は無いし、
苦しむ事も無いのです。

星形で出てくる歯磨き粉は、本来自分は星形だという事すらわかりません。
星形だとわからない以上、どうして私は星形なのとか苦しむ事はありません。

しかし見るものと見られるものという分離が起きると、そこで戦いや苦しみが起きます。
様々なメソッドやお祈りを実践しても、行う者と行われる者という分離がある以上、
どうしても一時的な苦しみと一時的な喜びは付きまといます。
結局は国と国の境界線上が最も争いを招くのは世の常なのであります。

様々な思考、感情、行動が出てくるのは、しょうがないのです。
しかし本来のあなたは歯磨き粉ではなく、歯磨き粉を出しているチューブの口なのですから
出てくるものに責任や罪悪感を感じる必要は全くありません。

朝起きて通勤途中に車に轢かれた猫を見ても、それは不吉の前兆ではないし、
女子高生のパンチラを見ても吉兆ではありません(逮捕フラグです
星形の歯磨き粉が出るが如く、「そういうもの」なのです。

「では何故私はこんな不幸なんでしょう、どうすればチューブの口を変化出来るのか」
これも既にこのタイミングでそのような思考が出る「形」になっているだけで、
「形」である本来のあなたがこの思考(歯磨き粉)について思い悩む事はありませんよね。
思い悩む事は無いって事は、つまり不幸でも何でも無いって事です。
前回の記事で「何をやっても間違い」なので、じゃあゴロゴロ寝てるだけで
良いのか、と思われた人も居るかもしれません。

まあ結局はそんなモンなんですが、そもそも我々は常に分離状態である事が
ある意味デフォルトであります。

つまり何かを知覚・認識する時点で既に分離です、仮に目の前に人参があったら
「人参」と「人参を見ているアタクシ」が出てきますし、「何もしないで布団でゴロゴロ」も
「何もしないで布団でゴロゴロしているアタクシ」があるので分離です。

と言っても別に分離してるからよろしくないとか、分離してるからアホとかいった事は
一切ありません。
前述したように分離状態はデフォルトであり、そこからいかに本来の自分に気付くか、
という事であります。

で、ここまで読んで色々考えたり感じる事もあるかもしれませんが、
本来のあなたは思考ではないし、感情でもないので、それらが感じられるという事は
既に分離したという事です。いかに分離がデフォルトなのかよくわかると思います。

なので「気付く」という言い方も厳密に言えば間違っているのです。
何故なら前回も書きましたが「気付く前」と「気付いた後」が存在しなければならなくなると
いうのと、「気付かれる対象」があるという事は、その対象と分離しているわけですから
「気付く」という表現はあっても、実際はありえないのであります。

かなり話がややこしくなってきましたが、スピ系で言われているメソッド類は殆ど
「実は分離がデフォルトだった」事に気付き、そして全て捨てていく形になっている事が
多いようです。

よく言われる「フラットに全てを受け入れろ」というのも、まず感情や思考が入ってくると
わけがわからなくなるので取りあえずそれらを鎮める。
で、思考に振り回されなくなったら今度は思考や感情を見つめる方に移行し、
本来の自分は静かである事に気付き、今度は「静かであると気付いてるのは誰なのか」と
なります。

で、それを繰り返すと「静かという事は、実は誰も居ない」となり、今度は
「では何故誰も居ないのに誰も居ないと認識出来るのか」と何か小学生の口喧嘩みたいな
展開になりますが、ここで「誰も居ない」という認識は、実は自我の抵抗であることに
気付きます。

つまり分離=自我の抵抗がまずデフォルトとしてあり、
それによってあらゆる知覚、認識が起こっていたのであります。
知覚・認識さえあれば思考も感情も出てくるので、自我は消滅から免れます。
全ては自我の抵抗が生み出すものだったのです。

なので「誰も居ない」「私は居ない」という認識さえ、厳密には
自我の抵抗であります。

そしてそれらの抵抗に基づいて様々なメソッド類に取り組むわけですから、
やる事成すこと全部間違い(分離)なのです。

が、しかし。 メソッドを実践しなければあらゆるものが自我の抵抗だと
わからぬまま分離と抵抗の中で苦しみ続けるわけですから、
やはりメソッド類は実践した方が良いのであります。

前回書いたように反発する磁石をわざと近付けないと磁力を認識する事が
出来ないように、敢えて「間違った」事を行うのは正しい事なのです。



最終的には、グルッと一周して来たように「ゴロゴロ寝ている」に戻るでしょう。
しかし、そこには「ゴロゴロ寝ている」者は何処にも居なくなっているのです。

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