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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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昨日までの記事で、「心に振り回されるとうんたらかんたら」とか書いてきましたが、
「じゃあ一度ブンブン振り回されるともうダメなのか」みたいに受け取った方もいるかもしれません。

これは別に振り回されようが殴られようがどうでも良いもので、
問題は振り回されることで「何にも叶ってないわ!」とか「トンデモねえ不幸だわ!」という
思考を現実であると思い込む事が真の問題です。

本当は何も起こっていないのであります、起こっていない事を「起こっている」と捉えて
「ほらやっぱり起こっているだろ」と次々と「証拠」を作り出していくのが問題なのです。

振り回されるのは別に良いのです。ただ振り回されてるだけなのに、いつの間にか問題を
作り出してしまう、それは何故かというと「いやああああ、振り回されているわ、良くないわ」→
「良くないのは、問題を抱えているからだわ」→さらに「いやあああああああ」となるからです。

語弊がある言い方ですが、結局「問題が起こって欲しい」んですよね、
だからこそ、それが投影されるわけです。

振り回されているのは、別にあなたではありません。
エゴでも何でも良いのですが、とにかく「あなたとは関係無い何か」です。
関係無いのですから、わざわざ関係を持ちに行くことはありません。

少しややこしい事を言うと、振り回されている思考でもエゴでも何でも良いですが、
それを具体的に「定義付け」しないとそれは存在できないのであります。

例えば「いやあああああ」という音を「悲鳴」と定義付け、さらにその悲鳴が「女性」のものだと
定義付け、ちょっと見に行ったら馬場にジャイアントスイングされてるのが
最近すっかりこのブログのレギュラーになった研ナオコだったとします。

その時点で初めて「馬場にジャイアントスイングされる研ナオコ」が存在出来るのです。
「音」→「悲鳴」→「女性」→「研ナオコ」と定義付けがどんどん進んで行き、
めでたく「馬場にジャイアントスイングされる研ナオコ」の誕生であります。

ですから振り回されても、最初の「いやあああ」を定義付けしなければ良いのです。
前も書いたかもしれませんが、この「定義付け」しない事は源泉掛け流しに触れるコツの
一つかもしれません。

まあこの記事読んだ後だと、これからテレビで研ナオコが出るたびに強烈に
「これは研ナオコだ!」と定義付けを強める羽目になりそうですけど。
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読者の方からのメールで結構多いのが「全てを受け入れるとか何だとかありますが、
そんな事出来ないです」
というものです。 

これは、エゴ視点でこれは悪いものとか不幸だとか判断するものを、どうしても受け入れるのは
難しいという事だと思います。このブログを読む度に現金5万ペソを払えやと言われても
「こんな糞ブログに・・・」となかなか受け入れる気がしないのと同じです。

今回はこの「受け入れられない」を解決するお手軽なメソッドであります。

この前「思考やエゴを眺めるのは家の中から外で降ってる雪を眺めているのと同じ」みたいな
事を書きましたが、エゴ視点で「良くない事」「とにかく悪い事」という思考が
湧いてきたら、それを「雪が降っているのを眺めていたら、ドリフのコントのように
突然タライが降ってきた」と捉えれば良いのです。

現実は内面の投影であります。思考や出来事を「これは悪い事だ」と捉えると
「何故、私はこのような事を引き寄せてしまったんだ!」とか勝手に苦しむかもしれませんが、
「タライが降ってきた」なら「何故、俺はタライを降らせたのだろう、どのような観念や
思い込みで降らせたのだろうか、タライ降らせる俺の内面おもしれー」と、単なる分析者というか、
まったく中立なスタンスで捉えることが出来ます。

もちろん分析して答えが出なくても構いません、これは「良くない事」
というエゴ視点の概念を「分析の楽しみ」に変える事が目的だからです。

もしかしたら、適当に分析してると天啓のようにエゴの奥底に隠れた概念が
ポコンと出てくるかもしれません、出てきたら出てきたで良いし、出てこないなら
それでも良いのです。あまり深く分析してやろうとか思わずに「タライが降ってきた、
なんでだろう?面白いなあ」だけで良いのです。

これは殆ど全てに適用できる、役に立たないメソッドばかり書いてあるこのブログにしては
珍しく使い勝手の良いメソッドです。

何故か「悩み」というレッテルが貼ってあるタライが降ってきたら「なんでだろう?」だけで
良いのです、「むかつく奴だ」というレッテルが貼ってあるオッサン(タライ)が降ってきても
「女子高生を毎日妄想していたが、こんなオッサンを出現させるとは
俺の内面も妙な趣味持ってるぜ!」」で構いませんし、強烈な台風や雷が鳴ってても
「こんなすげえ自然現象を投影する俺の宇宙パねえ、さすがの猿飛の神風の術みたいだぜ」で
良いのです(若い人はさすがの猿飛なんて知らないだろうなあ)

かなりはっちゃけて書きましたが、結局本当の自分には「楽」とか「愛」しか無いんですよ。
全てを面白がって全てを愛しているのです。何故なら世界そのものが 
「愛すべき、楽しむべき自分」だからです、
難しく考える事はありません。

実際に雪降ってるの眺めててタライが降ってきたら「何で?」とその瞬間は
思うでしょうが明日になれば忘れてます、それぐらいの感じで良いのです。

これでもう全ての「悪い概念」「不幸」は「良くないもの」「克服すべき障害」ではなく、
内面の投影を見せてくれるだけのものであり、それはドリフのコントを楽しむのと
同じものになりました。これであなたも今日からドリフターズの一員です。
このブログもあと一ヶ月程で開設してはや半年となりますが、 
開設以来まったく見ていなかった(存在を忘れていた)アクセス解析を
見てみたら一日に約600ヒットもあり、いつの間にかそんなに人が
来ていたのかと驚いた次第です。

もうこれからは変な事は書けない、とも思いましたが
もう手遅れな気もするので、これからもこの調子で進んでいこうと思います。

今日は読者の方からのお便り紹介であります。
この前も「非常に深いメールを頂いた」のですが、今回もマリアナ海溝並みに
深いメールを頂きました。ありがとうございます。

まあ内容はいつものように端折らせてもらいますけど、
要約すると「エゴから解放された後に”新たなエゴ”を創造できるのか?」という
正直言ってこの発想は無かった的なものです。

私個人の見解ですけど、結局エゴって寝ぼけてるようなもんなので
”新たなエゴ”って無いと思うんですよね。
じゃあ何で「新しいエゴの創造云々」になるかっていうと、結局の所
「エゴから解放された」=「何の欲も無い仙人」みたいなイメージ
捉えているからではないかと思われます。

つまり「欲が無くなっちゃったら俺の願望どうなんの?」的な不安なのかなあと
勝手にメールを超解釈させて頂きました。

エゴから解放されると願望って概念自体が揺らぐんで、後はもう流れて行けば
良いんですけど、別に仙人みたいにはなりません。
大体私みたいなその辺のオッサンが仙人になれるわけないですし、
逆に言えば、エゴに気付くことはその辺のオッサンでも出来るということです。

ただ正確に言うと「エゴから解放」ってのはありません、エゴに(寝ぼけに)
気付いている状態であって、どこまでいってもエゴはあります。
ただ寝ぼけを寝ぼけと気付くと、もう寝ぼけで無くなるのと同じで、
エゴをエゴとして見なくなる感じです。

あまり難しく考えない事が一番です。もちろん世の中には「聖人」
言われるほどのマジでエゴから解放されたようなすごい人もいますが、
このブログを聖人が読んでるわけないんで「エゴからの解放」とかを
高尚なイメージで受け取ると、結局それが投影されるっつーだけの事です。

まあ「新たなエゴの創造」をやってみたいならチャットでネカマでも
やれば新たなエゴに目覚めると思います。いきなり女子高生とかは難易度が
高いので、まずは自分のオカン辺りをイメージしてやりましょう。

つーか冒頭で「もう変な事は書けない」とか言っといて、結局こんなオチで良いんでしょうか(爆)
昨日も書きましたが、何者かが心の「声」を聞いているというのは結構ポイントです。
この「声」を音声処理する前、つまり得体の知れない「何か」が湧き上がって来る場所こそ、
本来の自分が居る場所です(多分)

この湧き上がってくる「源泉掛け流し」に常に居る、ということは何か湧き上がってきたときに
最も適切な行動を取れるという事でもあります。昨日のボディワークの話で言えば、
重力を感じているからこそ、スポーツなどで、その場その場で適切な動作が取れるのと同じ理屈で
あります。

もちろんこの「適切な行動」とはエゴ視点から見た場合の話です。
実際は「行動している」とかいちいち判断しないでしょう、虎や熊に追いかけられたら何も考えずに
逃げるのと同じです。

源泉掛け流しに居るという事は、つまり心の声(らしきもの)を思考やエゴで肉付けする前の
段階に居るともいえます、つまり「もうだめだ」という”言葉”は思考で「もうだめだ」と
「心で喋っている」と判断した時点で初めて「もうだめだ」となります。

そしてエゴが「私」は「もうだめだ」とさらに判断し、ここで初めて「私はもうだめだ」が
エゴにとっての「真実」となる
わけです。

実際は「もうだめだ」は湧き上がった時点では「%&#$=」みたいな記号というか、
発射される前の波動砲のようなものであります、それに思考が目に見えている状況やその他で
勝手に判断し、「これは、”もうだめだ”である」とし、それをエゴは「心の声」として
知覚するわけです。

しかし、源泉掛け流しに居れば絶対の「真実」など無い事に気付けます。
全てのものは何だかわからないチャージ中の波動砲っぽいものだったのであります。
そこに居ることで初めて世界の創造というものを垣間見えるかもしれません。

ここまで読んで「何を書いてるんだかさっぱりわからないなあー」と思えば
それが「真実」となっているでしょうし「よくわかった」と思えば、それも真実となり
「波動砲って何?」と思えばそれも真実となっています。

湧き上がってくるものに思考とエゴで勝手に肉付けしていただけったのであります。
そんなものに惑わされずに、「湧き上がってくるもの」そのものに目覚めれば良いのです。
突然ですが、このブログを読んでいる方の殆どは、目で字面を追って読んでいるはずです、
まさかでかい声で音読してるような強者はいないと思います。

恐らく心の中で音読していると思うんですけど、何故音読できるのでしょうか。
「あいうえお」と書いてあるのを見て、何故「あいうえお」と言えるのかという事です。

それは、心のスクリーンに字が浮かんで、それを何者かが勝手に読んでいるのです。
つまり鏡に写った文字や絵を何者かが勝手に「これはこういうものである」と表現しているのと
言えます。

この何者の正体はエゴであります、エゴが主役ヅラして勝手に色々と表現しているのです。
本来のあなたは鏡の方なのです、鏡は何でも写します、つまりぶっちゃけた言い方をすれば
完璧なのです。じゃあ何で苦しいのでござるかというと、写った文字や絵をエゴが勝手に批評し、
エゴが勝手に苦しんでいるだけです。

ですから鏡の意識に戻りましょう、とここまではどこかで聞いたような話ですが
問題はここからで、いきなりお前は鏡の世界の住人なのだとか言われても困ってしまう事が
殆どです。

しかし、賢明な方は「そうか、世界は鏡に写っているだけ。俺は鏡だ、ミラーマンなのだ」と
意識するかもしれません。

ポイントはここです。「俺はミラーマン」を心の中で音に変換し、心の声で「聞かせて」いるのは
誰なんだという事です。そう、エゴの仕業であります。

つまり「ミラーマン」という文字をエゴが勝手に文字として音声処理し、それを勝手に聞かされる前の
状態こそが真のミラーマンなのです。

この「真のミラーマン」を表現することは不可能です。
何故なら全ての言語表現や音での表現は「エゴを通した表現方法」に他ならないからです。

「すき家の意志」とか「源泉掛け流し」とか「ミラーマン」とか色々表現を変えてきましたが、
それらの表現では真実を表すことは出来ません、上記の表現を「文字として読んだ」瞬間に、
それはもうエゴによって表現された別物になってしまうからです。

全てを写し、そして常に「そこに在る」もの。しかし決して表現できないもの、
それが本当のあなたなのです。

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かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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