昨日の記事
「北斗の拳メソッド」について、読者の方からメールを頂きました。
「いくらエゴが幻想といえど、今まで守ってくれていたのではなかろうか」
「守ってくれたエゴを
あたたたたたと殺すのは偲びない」というものです。
これは
鋭い指摘であります。
まさにエゴは我々がどっか行かないように守っていると同時に、前進させてくれる役目も
果たしていたのです。
前も書きましたが、エゴでどうのこうのとやってる状態は
一種の寝ぼけであります。
寝ぼけているだけなので、エゴが居るように見えるのですが、
本来はエゴというものすら
存在しません。が、説明上「エゴ」と「その他大勢」のように分けて書かないと混乱を
招くので、便宜上「エゴ」と「私」みたいな感じで書いています。
寝ぼけ状態で大活躍するエゴは、寝ぼけている世界から「私」を逃がさないために
様々な手段で守ろうとします。つまり「これをやらないと大変な事になるづら」とか
「もっと未来の事を考えないとエラいことになるっちゃ」とか「これはダメだ」とか囁いて
「私」をその場に留まらせようとします。しかし、同時に「これをやれば何かすごい事になるかもしれない」「成功しちゃうかもしれない」
とか
「希望」を「私」に与えて前進させようともします。アクセルとブレーキを同時に踏むというか、
絶妙なアメとムチの使い分けというか、
とにかく「停滞」と「前進」を交互に与えてずーっと寝ぼけ状態をキープしているわけです。
エゴは寝ぼけキープのためならありとあらゆる手段を使います。
今回の「エゴは守ってくれていたのではないか、殺すのは気の毒だ」という読者の方が抱いた
概念は、元を正せば
昨日の北斗の拳が原因なわけです。
読者の方は昨日の記事を読んで「そうか、エゴを殺してしまえば・・・」とか思ったかもしれません。
しかし
「北斗の拳」⇒「あたたたたた」⇒「ひでぶ」⇒「なんて残酷なんだ!!」というイメージを
利用して、読者の方のエゴが「僕を殺すなんてこんな糞ブログの言うことを信じちゃダメだ!
僕が気の毒だと思わないのか!?」と騒ぎだし、「やっぱりエゴを殺すなんて残酷かも」と
読者の方に思わせたわけです。まさに読者の方が世紀末救世主になることから
「守った」のです。
仮に昨日の記事が北斗の拳ではなく
「ドラえもんメソッド」とかのタイトルで、
「エゴは幻想です、居ても居なくても良いのです。
そう、のび太がジャイアンと野球やってる場面に
いつもいるデブのモブキャラの
ようなものです」とか書いたとしても「そうか、やっぱりエゴは友達なのかもしれない・・・
例えモブキャラだとしても消すなんて偲びない」と読者の方は思ったかもしれません。
なんだかよくわからない例えかもしれませんが、エゴは無意識のイメージや概念を
巧みに利用して居座ろうとします。やっかいなのは
そのイメージや概念が絶対の真理であり
自分が(本当はエゴなんですが)抱いたのだ、と感じてしまうことです。いかに寝ぼけ状態が巧妙に作られているか、という事ですね。
PR