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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「スピリチュアル的な気付きとか目覚めとかは、そういった知識があるから
得られるのであって、思考を伴う知識が必要という事は、結局はエゴの
力(思考)が必要なのではないか?」
という大変に鋭い内容のメールを
頂きました。

大事な事なので繰り返しますが、正直言ってこの内容は鋭い、感服致しました。
私のようなアホがここまで鋭い考察に十分答えられるかわかりませんが、
これは頑張って答えねばならないでしょう。

スピリチュアル的な気付きとか目覚めを得るためには、
確かにそのような知識に触れねばなりません。
そして思考によって何らかの気付きだ何だを得るのも事実であります。

そして先人が書いた書籍やら残した言葉から、自らが得た気付きだの
目覚めだのを「確かなものであった」と答えあわせをするかのようにして、
「私はシフクを得た!」とか言ってるのであります。

しかしながら、思考を用いてああでもないこうでもないと
悩むのは自我(エゴ)であります。つまりどこまでいっても「自我が満足するか否か」
であり、結局は観念との戦いであります。スピリチュアルな知識とは観念であり、
観念は自我を満足させる餌に過ぎません。

スピリチュアルな知識とは突き詰めると「本来の私(我々)」に戻るための
きっかけであって、それ以上でもそれ以下でもありません。
絶対的に正しいわけではないし、ましてや人生の指針にするとかトンデモねー事です。

男の子が性に目覚めるきっかけがセーラームーンだったとしても、
女性の絶対的に正しい姿がセーラー服というわけでは無いのと同じです。
私はセーラー服好きですけど。

話を戻すと、「スピリチュアルな気付きや目覚めがある」ときっかけとして
認識するのは別に良いのです。問題は「それを得ていない」と悩み出す事であります。

これは自らの影は実体が無いものと「わかっている」のに何故かそれを
「わかっていない」と思うのと同じです。

ややこしいですが「私は何も気付きを得ていない」と言えるという事は、
その事(気付いていない事)に気付いている何者かがいるという事です。
ですから別に気付こうが何だろうがどうでもよいのですよ。
もっと言えば気付くために何かをするというのも、やりたいならやれば良いですが、
やりたくないならそれで良いでしょう。
最初から全てに”気付いている”わけですから。
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今日は何もする事が無いので昼過ぎまで寝てたんですが、
起きてインターネッツを見てみると2020年の夏季オリンピックが
東京に決まったんですね。

オリンピックはあまり興味が無いのでよくわかりませんが、
次の2024年オリンピックは、さいたま市でやってもらいたいです。
ていうかこれからはずっと日本の都市が持ち回りで
オリンピックやってれば、田舎もどんどん発展するんで良いんじゃ
ないでしょうか。

個人的にはオリンピックよりワールドカップを日本で単独開催して
ほしい所ですが、何はともあれ召致に尽力した関係者の皆様、
お疲れさまでした。これで石原御大も思い残す事なく死ねますね。

ついでに、この前のロンドン五輪のバックベアードみたいな
ダッセえマスコットキャラはやめてください。

マスコットキャラのデザインは無難に鳥山明か、
超人オリンピック繋がりでゆでたまごに依頼するべきでしょう。
自我というものはとにかく主役になりたがるものです。
自分が一番であり、多くの人に尊敬されたいとか、多くの人に大切に
されたいとか常に自我は思っています。

結局の所、何かを叶えたいとか何だとかも、この「主役は私」という
強い思いみたいのが元になっているのであります。

しかし、漫画の主人公ならば努力と根性、そして友情パワーで
何とかしてしまうかもしれませんが、残念ながら「何か」を成し遂げるのは
自我の範疇を越えた”大いなる力”みたいなものです(あまりこういう表現好きじゃ
ないけど)

前もちょっと書きましたけど、例えばある企業の株価の上昇は一般的にはその企業の業績が
上がる事でもたらされるのであって、別に「主役であるはずの」私が何かをしたわけでは
ありません。

「いや、私は確実に業績が上がるであろう会社の株を厳選して買ったのです(主役だし)
と言うかもしれませんが、他の人からすればそんな会社の業績は上がらないと判断するかも
しれませんし、結局は自我の思い込みに過ぎないのです。

なので「主役であるはずの」私が何かを行うとか、何かを成し遂げるとかの
「主人公補正」があるはずだ、という思い込みを止めて、
勝手に起こる大きな力の表現に対し、ありがたやありがたやと取りあえず感謝していれば
それで良いのであります。

「自分は人生という舞台における主人公なんだ」「主人公を降りるのは何となく
プライドが許さない」
とかのくだらない自我の叫びなど、どうでも良いのであります。

というかどんな漫画でも主役以外は「ゲゲーッ!!」とか「知っているのか雷電!?」とか
驚いてるか解説をしているかのどちらかしか無いので、単純で楽チンな脇役に徹し、
潔く主役の座を降りてしまえば良いのです。

主人公なんて何だかんだで一番疲れる役回りですし、クリリンなんて殆ど戦力外で
死んだり生き返ったりを繰り返してるだけの癖に、いつの間にか美人の嫁さんをゲットして
可愛い娘まで生まれたではありませんか。我々が目指すべきは悟空ではなく
クリリンなのであります。

自我が衰退していくと、主役として頑張るのではなく、あくまで動きを海に任せる波の如く
全てに抵抗せずに流れるままに過ごすようになります。
自我からすれば「それでも自分が主役で、自分が選択している」という感じになるかも
しれませんが、それすらもどうでも良い感じになります。

しかしそれでも、「主役である私の力でどうこうしたい」という思いだけは
なかなか手放せない、または何となくそうなっている人が多いのが面白いですよね。

そういう人の自我に限って高次元存在だとか神龍だとか宇宙人だとか「主役の力を超えた
何だかよくわからないけどスゴイもの」にお願いしたりしているのは、
もうわけがわかりません。主役を演じる「私」など何処にも居ないのに、
こういう時だけ主役ヅラして出てくる
のも、面白い所です。
昨日の続きですが、自由意志が無い、という事は極端に言えば全てオートマ
進んでいくという事であります。

これはまあよく考えるとごく当たり前の話で、例えば私とあなたがボクシングを始めたら
ボクシングのルールに沿って局面は進んでいくわけで、途中から背負い投げが炸裂したり
ヌンチャクで戦ったりはしません。

確定しているのはどちらかが殴り倒されるか判定まで行くという
極めてシンプルな事であり、ボクシングを始めた時点で未来は確定しているのであります。

もうちょい正確に言うと、未来は確定しているというより、多くの要素が
同時に存在している
という事です。

簡単に言うと私があなたをブッ飛ばしたとして、またはその逆の場合も、
それをざっくり分けるとブッ飛ばすパンチはストレートかフックかアッパーの
どれかになるわけです。

つまりストレートでブッ飛ばす(またはブッ飛ばされる)、フックでブッ飛ばす、
アッパーでブッ飛ばすの三種類の「未来」がボクシングを始めたと同時に
存在する
わけですね。

ボクシングを始めた以上、三角絞めやオモプラッタで決着がつくという未来は
存在出来ないのであります。

自由意志があると思うと多くの選択肢が時間軸に沿って出てくるように感じますが、
シンプルに捉えれば全ての要素は既に同時に存在し、そして同時に確定しているのです。
なので時間とは存在するかのように見えますが、存在しないのです。




で、ここまで読んで「ならば今度ボクシングをする時はまさかの飛びつき腕十字を
してやろう」と思ったルール無用なボクサーもいるかもしれませんが、
そういった思考もこのブログを読まないと出てこなかったはずなのです。

なので結局は与えられた刺激・環境・条件の下において全ては確定され
同時に存在している
のです。問題はそれに気付くか気付かないかだけです。

「殴られたくない」のならば、必ずどちらかがブッ飛ばされるボクシング自体を
やらなければよろしいのです、ボクシングに参加した時点で殴り殴られる「未来」は
確定しているのですから、ボクシングに参加しているのに殴られたくないとか
願うのは無理な話です。

または馬券を買っているのに「お金を失いたくない」とかは在り得ません。
お金を失いたくないならそもそも競馬場なんかに来なきゃ良いだけの
話ですよね。

しかしあえてボクシングやギャンブルに挑戦して勝ちたいのなら、それらに参加する事で
「必ず確定し、同時に存在している」あらゆる未来を受け入れる事です。
既に存在し確定している事象を受け入れる事で、あれやこれやと悩む自我は衰退していきます。

そもそも悩む事象自体が無いのだから自我の出る幕が無いので、
こうして事象そのものとなるのであります。

スピリチュアル風に言えば「世界は自分だった」となるわけですね。
ちょくちょく書いていますが、自由意志が存在しない事は別に恐怖でも何でもなく、
単なる錯覚による産物に過ぎません。

仮に部屋の中に何かを隠すとしたら、当たり前ですが部屋にある家具の中とか天井裏とかに
隠しますよね。

自由意志を用いて隠し場所を考えているようですが、結局は「部屋の中」という条件下に
おいての行動しか出てきません。自由意志による行動は一つも無いのです。

なので「何かを行っている私」「”行為者”としての私」は
居るように見えて(感じて?)実は何処にも居ないのであります。

ここでもう一歩突き詰めると、何かを隠している最中にも色々と考えていると思いますが、
それら思考も「部屋の中に何かを隠す」という条件下において出てくる思考なので、
「”行為者”としての私」が居ないのならば「”行為者”としての私が感じている思考」も
存在しません。


つまり何が言いたいのかと言うと、「思考の中に答えは無い」という事であります。

特定の条件下でしか出て来れない幻の”行為者”が居るはずだという錯覚が、
思考というものが”在る”と感じる最大の要因ですから、
”行為者”の消滅と共に思考も幻となります。

では、今浮かんできている思考は一体何で、誰の思考なのか?

そんな事は海を眺めながら、今発生している波は誰の波なのか?と
考えているのと同じです。つまり答えは無いのであります。

私の波だと思えば私の波だし、あなたの波と思えばあなたの波です。
それらは思考による産物であって真実ではありません。
真実は思考の範疇には無いという事ですね。








もう取り壊してしまいましたが、実家の庭に昔、子供部屋ならぬ子供小屋があったんですよ。

厨房の頃の私がエロ本を隠すと言えば、当然その小屋の中だったんですが、
これも自由意志によって隠していると思いきや「エロ本をすぐ読める場所に隠す」という
条件においては、子供小屋しか無かったのであります。
多分たまに掃除をしてくれてたお手伝いさんにはバレバレだったんでしょうねえ。

この前ちょっと実家に帰る用があり、オヤジに言われて何故か庭掃除をさせられる羽目に
なったんですが、必死にエロ本を隠していた少年時代を思い出してしまいました。

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職業:
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趣味:
超合金魂
自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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メールはsiranwa22☆yahoo.co.jpに
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