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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「知らんさんのような変な人は痛み等にどう反応するのか、
拷問を受けたらどうなるのか?」
というスーパーハードSMプレイを
示唆するようなメールを頂きました、ありがとうございます。

結論から言うとですね、拷問を受けたら泣いて喚いて失禁して
死ぬ
と思います。運動をしたら汗をかくと同じように、
それに応じた反応が出るだけであります。

「痛くても幸せ」とかはドMならともかく普通は無いです、
痛みは痛みであってそこに在るだけです。

そもそも幸せを感じるという事は、幸せを感じる対象が無くては
ならないので、「何々だけど幸せですよ、穏やかですよ」というのは
スピリチュアルの知識を免罪符のように使っているだけで、
結局の所はその「何々」の部分がいつまでも付きまとうでしょう。

幸せに在る事に「何々」は必要ないのですが、
何々を意識する事で幸せを感じる対象を作っているので、
これは分離を前提とした幸せであります。

拷問されたら「痛いけど幸せ」とかの幸せを感じる対象を必要とする
自我の強がりではなくて、痛いなら泣いて喚いて失禁するのが
水が高い所から低きに流れるのと同じく、
自我の介在しない在るがままの幸せであります。

自我が介在すると「痛い、このままじゃ死ぬ。死にたくない、じゃあ痛くても
幸せを感じよう。」とかなるのですが、まず「このままじゃ死ぬ」というのが
勝手な未来を推測しているだけで、ここから幸せを感じたいけど痛い、
でも痛いけど幸せを感じないと、とか葛藤になって勝手に苦しむのですよ。

ですから「何々だけど幸せです」って余裕こいてるようで実は最も苦しんでる
自我の言わせる台詞なんですね。

自我を介在させずに、運動したら汗が流れるが如く、在るがままの完璧でいるべきです。
「汗をかかずにいるために、汗だくになりそうだけど幸せです」とか妙な葛藤を
する必要はありません。自然に汗が流れるという現象そのものになれば、
不幸は無いのです。







と、ここまで書いてきて、そういや彼女とSMプレイはやった事無いなあと
思いました。まあ彼女の機嫌が悪い時にはいつも馬鹿だのグズだのマヌケだのと
ハードな言葉責めを受けているので、日常即プレイという、いつの間にかマニアックな
方面に突っ走っていたようです。
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昨日の記事は少々わかりづらかったので、少し見方を変えてみますが
あらゆる知識や認識は全て「考える能力」ともいうべき領域で
処理されます。

で、自我は基本的にこの「考える能力」を自らであると感じ、
同時に「真の私」より格上に見ています。

あるんだか無いんだかわからん真実の私がどうこうより、
それを考えて納得させる「考えるオレ」の方が正しいのである、という
感じです。

考えるということは、「考えられる対象」があるわけで、
考える能力が高ければ高いほど、真の私とは必ず分離します。

しかし、「真の私は分離ではなく世界と一つでありうんたらかんたら」という
知識に対し、理解するには「考えねばならない」ので、ここにパラドックス的な
ものが出てくるわけであります。

これを打破するには普段「考えていない」領域のものを敢えて引っ張りだし、
考える能力にさらすのであります。

例えばメシを食ってる時や喋ってる時は、舌は非常に器用な動きを
するわけですが、こんなものは考えてやってるわけではないのです。
敢えて舌の動きをメシを食ってる時に「考えて」やってみても、
多分すぐにめんどくさくなって疲れるだけでしょう。

「考える能力」を破棄した方が舌は正確に動いてくれるのであります、
大袈裟に言えば舌がどうのこうのという概念すら無い、つまりお口の中は
世界そのもの
だからこそ、舌は完璧な動きを見せるのであります。
完璧な舌を願うのではなく、最初から完璧だったという事です。

「考える能力」を捨てる事が、自我を幻と見て、やがては自分と思っていた
ものは何処にもおらず、世界であったという真の私に導くのです。

我々はスピ系の知識なんか知らなくても常に世界なのであります。
鼻をほじりたくなればほじるし、ケツが痒いならかく。
そこに指を鼻に突っ込む際のスピードとか、ケツをどれぐらいの力で
かくかとか、「考える能力」はお呼びではありません。

「考える能力」を捨てれば、大袈裟に言えば全てが世界(自分)の現れであります。
車が横から出てくれば、よける。そこに自由意志はありません、車という
刺激が世界から現れ、それに反応し世界がよけるという刺激で答えただけです。

海においては波同士が重なる事も海の働きの現れであり、
さらに大きな波になる事も、海の働きの現れであります。
そこに「考える能力」は存在せず、全てが海であるのと同じ事です。

つまり全ては単なる世界に生じた刺激でしかないのです。
水が上から下へ流れるように、刺激に応じた反応がただあるだけです。
という事は普段「自分だ」と「考えている」事を止めれば
真の私がそこに最初から存在しているというわけです。

そしてそれは知識など無くても、前述したメシを食ってる時や
ケツをかいてる時に、当たり前のように在るのであります。
「スピリチュアル的な気付きとか目覚めとかは、そういった知識があるから
得られるのであって、思考を伴う知識が必要という事は、結局はエゴの
力(思考)が必要なのではないか?」
という大変に鋭い内容のメールを
頂きました。

大事な事なので繰り返しますが、正直言ってこの内容は鋭い、感服致しました。
私のようなアホがここまで鋭い考察に十分答えられるかわかりませんが、
これは頑張って答えねばならないでしょう。

スピリチュアル的な気付きとか目覚めを得るためには、
確かにそのような知識に触れねばなりません。
そして思考によって何らかの気付きだ何だを得るのも事実であります。

そして先人が書いた書籍やら残した言葉から、自らが得た気付きだの
目覚めだのを「確かなものであった」と答えあわせをするかのようにして、
「私はシフクを得た!」とか言ってるのであります。

しかしながら、思考を用いてああでもないこうでもないと
悩むのは自我(エゴ)であります。つまりどこまでいっても「自我が満足するか否か」
であり、結局は観念との戦いであります。スピリチュアルな知識とは観念であり、
観念は自我を満足させる餌に過ぎません。

スピリチュアルな知識とは突き詰めると「本来の私(我々)」に戻るための
きっかけであって、それ以上でもそれ以下でもありません。
絶対的に正しいわけではないし、ましてや人生の指針にするとかトンデモねー事です。

男の子が性に目覚めるきっかけがセーラームーンだったとしても、
女性の絶対的に正しい姿がセーラー服というわけでは無いのと同じです。
私はセーラー服好きですけど。

話を戻すと、「スピリチュアルな気付きや目覚めがある」ときっかけとして
認識するのは別に良いのです。問題は「それを得ていない」と悩み出す事であります。

これは自らの影は実体が無いものと「わかっている」のに何故かそれを
「わかっていない」と思うのと同じです。

ややこしいですが「私は何も気付きを得ていない」と言えるという事は、
その事(気付いていない事)に気付いている何者かがいるという事です。
ですから別に気付こうが何だろうがどうでもよいのですよ。
もっと言えば気付くために何かをするというのも、やりたいならやれば良いですが、
やりたくないならそれで良いでしょう。
最初から全てに”気付いている”わけですから。
今日は何もする事が無いので昼過ぎまで寝てたんですが、
起きてインターネッツを見てみると2020年の夏季オリンピックが
東京に決まったんですね。

オリンピックはあまり興味が無いのでよくわかりませんが、
次の2024年オリンピックは、さいたま市でやってもらいたいです。
ていうかこれからはずっと日本の都市が持ち回りで
オリンピックやってれば、田舎もどんどん発展するんで良いんじゃ
ないでしょうか。

個人的にはオリンピックよりワールドカップを日本で単独開催して
ほしい所ですが、何はともあれ召致に尽力した関係者の皆様、
お疲れさまでした。これで石原御大も思い残す事なく死ねますね。

ついでに、この前のロンドン五輪のバックベアードみたいな
ダッセえマスコットキャラはやめてください。

マスコットキャラのデザインは無難に鳥山明か、
超人オリンピック繋がりでゆでたまごに依頼するべきでしょう。
自我というものはとにかく主役になりたがるものです。
自分が一番であり、多くの人に尊敬されたいとか、多くの人に大切に
されたいとか常に自我は思っています。

結局の所、何かを叶えたいとか何だとかも、この「主役は私」という
強い思いみたいのが元になっているのであります。

しかし、漫画の主人公ならば努力と根性、そして友情パワーで
何とかしてしまうかもしれませんが、残念ながら「何か」を成し遂げるのは
自我の範疇を越えた”大いなる力”みたいなものです(あまりこういう表現好きじゃ
ないけど)

前もちょっと書きましたけど、例えばある企業の株価の上昇は一般的にはその企業の業績が
上がる事でもたらされるのであって、別に「主役であるはずの」私が何かをしたわけでは
ありません。

「いや、私は確実に業績が上がるであろう会社の株を厳選して買ったのです(主役だし)
と言うかもしれませんが、他の人からすればそんな会社の業績は上がらないと判断するかも
しれませんし、結局は自我の思い込みに過ぎないのです。

なので「主役であるはずの」私が何かを行うとか、何かを成し遂げるとかの
「主人公補正」があるはずだ、という思い込みを止めて、
勝手に起こる大きな力の表現に対し、ありがたやありがたやと取りあえず感謝していれば
それで良いのであります。

「自分は人生という舞台における主人公なんだ」「主人公を降りるのは何となく
プライドが許さない」
とかのくだらない自我の叫びなど、どうでも良いのであります。

というかどんな漫画でも主役以外は「ゲゲーッ!!」とか「知っているのか雷電!?」とか
驚いてるか解説をしているかのどちらかしか無いので、単純で楽チンな脇役に徹し、
潔く主役の座を降りてしまえば良いのです。

主人公なんて何だかんだで一番疲れる役回りですし、クリリンなんて殆ど戦力外で
死んだり生き返ったりを繰り返してるだけの癖に、いつの間にか美人の嫁さんをゲットして
可愛い娘まで生まれたではありませんか。我々が目指すべきは悟空ではなく
クリリンなのであります。

自我が衰退していくと、主役として頑張るのではなく、あくまで動きを海に任せる波の如く
全てに抵抗せずに流れるままに過ごすようになります。
自我からすれば「それでも自分が主役で、自分が選択している」という感じになるかも
しれませんが、それすらもどうでも良い感じになります。

しかしそれでも、「主役である私の力でどうこうしたい」という思いだけは
なかなか手放せない、または何となくそうなっている人が多いのが面白いですよね。

そういう人の自我に限って高次元存在だとか神龍だとか宇宙人だとか「主役の力を超えた
何だかよくわからないけどスゴイもの」にお願いしたりしているのは、
もうわけがわかりません。主役を演じる「私」など何処にも居ないのに、
こういう時だけ主役ヅラして出てくる
のも、面白い所です。

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