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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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だいぶ前に何人かの読者の方から教えて頂いてたんですけど、
ある博士(?)みたいな外人のオバハンが脳卒中でブッ倒れてから
何故か右脳だけで世界を観る事になり、そこでスピリチュアルっぽい体験をし、
その事を延々と語っている動画を初めて見ました。

まあ世界は一つであって、愛であって、うんたらかんたらとよくあるフレーズを
言った後に、何か世界平和を訴える的な感じになって、やっぱりラブアンドピースだよな
みたいな(?)内容でした。

基本的にスピリチュアルな目覚めというか、頭がどうかしてしまう
ほぼ間違いなく平和主義者になるのですよ。
そして戦争を憎み、ついでにアメリカを嫌いになり、最近では原発も嫌いになるのが
パターンのようであります。

私もブログで全て愛ですとか書きましたけど、それは確かにそうなんですが、
愛とか至福とかがあまりに快感過ぎる(?)ので、その事を他の皆さんに伝えたい、
これを伝えれば世界平和が実現する、世界はエゴで汚れている、
地球人類は粛清せねばならない、とか逆襲のシャアみたいな事を言い出すのは
少し違うのではなかろうかとも思います。

昨日の記事とちょっと被るんですが、我々は存在である、とかなって最初の段階みたいのでは
確かに愛とか至福とか感じるケースが多いと思うんですが、
だからといってそれを他人にお勧めできるかっつーとそうでもないのですよ。

何かをお勧めするって事は他人と言う概念を必要としますし、
愛だろ愛、と言った所で愛を感じている対象が存在しなきゃ愛もクソも無いのであります。

つまり苦しい苦しいというストーリーから、今度は愛だ平和だと騒ぎ出すストーリーに
場面が変わってるだけなんですね。

結局は「目覚め」的なモノですら、自我は己の消滅を避けるために利用するっつー事ですね。

ですから突き詰めて行けば目覚め的なものなんて無いのですよ。
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前の記事で「心の声を聞いてるからうんたらかんたら」という記事を書いたんですが、
「心の声を聞き過ぎというのがわかりました、でも絶望が大き過ぎて何たらかんたら」とか
「全て振り回されているのがわかりました、でもわからないという気持ちが大きくてどうのこうの」
とかのメールが多いのであります。

わかりましたって言ってる側から心の声を聞きまくっとるやんけと
ツッコミたくなったのですが、どうしても「私」という確固たる存在が在るという思い込みから
解放されないと、同じ所をグルグル回ってしまうものであります。

結局の所、悩みから解放される私、不安を克服する私、何かを成し遂げる私、と
様々な「私」の呪縛から逃れられないのは、どうしても「何かから解放される」っつー
行為を伴うものであるという誤解から来るものです。

仮に明晰夢を見ているとしてですね、夢の中の私は壁パンで壁をぶち抜いたり、
犬に追いかけられて噛みつかれても、逆に噛みつき返して犬を撃退したりと
夢の内容をある程度コントロールできるわけですが、
「私」が抜け切らない最大の原因は「世界は幻、明晰夢である」「ならば操作出来る」
というものです。

しかしここで考えて頂きたいのは、明晰夢の中の「私」も私ではないという事であります。
明晰夢に登場する私も、壁も犬も、全て幻であり、その材料(?)は意識です。
という事は意識が全てであって、意識だけが存在するという事です。

つまり操作する「私」は居ないのですよ。
しかし「それでも私は存在する」と言うかもしれません。

そうです、確かにその言葉は間違ってはおりません。

しかしながら少しややこしいですが「私は存在する」と言う時には
私という確固たる存在、意識があり、そしてそこから世界が派生すると
感じがちですが、そうではなくて「私は、存在する、です」なのであります。

つまり「存在」が私なのです。

これで明晰夢自体の「存在」が自分であり、「何かを成し遂げる私」は
「存在」の中の一部となりました。

解放される私も、悩みを克服する私も、何かを操作しようとする私も、
全ては存在を構成する一部であって、存在そのものは何も解放される必要も無く、
克服する事も無く、操作の必要もありません。

こうして「私」は宇宙の始まりから存在として在る事がわかりました、
おめでとうございます。
以前紹介した書籍「過去にも未来にもとらわれない生き方」
現在絶版になっていますが、Amazonの商品紹介の所に「この書籍のKindle化を
希望すっか?」みたいな事が書いてあるので、皆で電子書籍化を希望しましょう、
というメールを頂きました。ありがとうございます。



と、ここまで書いて思ったのですが、絶版のスピリチュアル書籍をブックオフとかで探し、
自炊して適当にレビューして馬鹿な情弱にブログの読者に売れば、
バリバリ著作権に違反しているとはいえ読者を上手く口止め出来れば
大儲けという事でしょうか。

これはアングラビジネスの予感が・・・というのは冗談ですが
「過去にも未来にも~」は良書だと思うので、電子書籍化に御協力を
お願いしますね。
不幸だ不幸だと騒いでいる場合、結局は本人が不幸を探しているのであります。
その本人は自我が騒いでるだけでどうのうこうのとか言うとややこしくなるので、
取りあえず御本人が不幸を探しているのであります。

で、もしも寝ている時に不幸だ不幸だと言っているのなら、間違いなく不幸だと
思われます。しかし、寝ている時に不幸を感じてはいないと思います。
不幸が「状態」ならば、常にその状態にならなくてはおかしいからであります。

しかし寝ている時に不幸では無い、ならば不幸という「状態」は
本人がわざわざ探しているとしか言えません。

そして不幸は、前回も書いたように心の声を聞きまくる事で作られるのであります。

仮に目の前で今にも死にそうな、「火垂るの墓」に出てきそうな子供が居るとします、
「かわいそうだ」「なんつー不幸な子だ」とか色々心の声が湧き、それを聞く事で
悲しくなったり、気分が沈んだりするのです。

ここで注目して頂きたいのは、恵まれない子供を見て不幸だ何だと感じるのは
あくまで心の声みたいのを聞き、それを信じた結果なのであります。
つまり子供の状態と「悲しい、不幸だ」という思考は実は関係無いのです。

これは別に死にそうな人を見かけたら指を差してプギャーと笑えとか、
巨人ファンのオヤジの前で巨人が負けてメシがうまいと言えとか、
そういった意味ではありません。

悲しいとか、なんて不幸なんだという「声」は殆ど条件反射的なものであって、
真実でも何でもない、という事です。

この事に気付く事で、あらゆるものは中立となり、結果として「自分」だと思っていた
ものが消え、世界が現れるのであります。
何故なら多くのモノや概念に価値観や順位をつける事で偽りの自分が作られて行くからです。

偽りの自己が解体された時、全てが自らの内側であって、
自分は外側の殻のようなものであると気付くでしょう。

雨が降っているのを見るのと同じように、痛み、喜び、感情、思考を感じ、
今まで己の内側だったと感じていた思考や感情が、外を流れる風のようになり、
己の外側で降っていると感じていた雨や風は、内側に在る事を知るのであります。







非常にどうでも良い余談ですが、「火垂るの墓」って英語にすると
当たり前ですが「Grave of Firefly」になるんですよね。

私は中学の時に「火垂るの墓」の原作の感想文を書く機会があったのですが、
「グレイブ オブ ファイヤーフライだと思って読むと何故か悲しくないです、
むしろカッコイイ」と一行で済ませたら、先公に本気で怒られました。
ここ数日は何故か似たような内容の悩み相談みたいなメールを頂くのですが、
兎にも角にも「心の声」的なモノに耳を傾け過ぎと感じます。

例えば前からオッサンが歩いて来て、そのオッサンがこちらを睨んできたら
不安になると思いますが、これも「不安だわ」と心が語るから不安になるだけで、
別にオッサンが睨んで来ようが微笑んで来ようがどうでも良いのです。

あくまで問題は「オッサンが睨んでる、怖いわ、不安だわ」とか
「オッサンが微笑んでる、変質者だわ、危険だわ」と囁きかけて来る「声」を
信じてしまう方に問題があるのであって、繰り返しますがオッサンはどうでも良いのです。

全ては心の声を無条件に”真実である”と思い込む事から来ているのが殆どです。

これはギャンブルなんかやってみるとよくわかるんですが、競馬とかで絶対の本命が来ると
わかってるのに「今月は負けが込んでるから」とか言い出して、
何故か突然収支の帳尻合わせを始めだして結局本命を買わなかったり、あるいはその逆で
「今月はツイてるから大丈夫」とか言って、来るわけ無い大穴につぎ込んで大負けしたりします。

そもそも私を含めて競馬場に来るようなアホなオッサンが、突然収支の帳尻合わせを考えたり、
ツイてるからOKとか言い出すのはもっとアホな事であります。

単純に馬券を買いに来ているだけであって、収支を合わせるのも、ツキに任せて
ブッ込むのも、「馬券を買う」という本来の目的から外れています。
外れていますが、何故か「収支を合わせて云々」や「ツイてるからOK」という
心の声が「正しい」と認識してしまうのですね。

この「心の声」が厄介なのは、それに従って行動し、うまくいったように見えると
それが「真理」であるとますます思い込んでしまう所です。
そして「真理」を囁く声の主こそが「私」であるという、確固たる自我が君臨するように
なる
のであります。




で、私はこの前明らかに彼女が機嫌悪そうだったのですが、気にせず目の前で屁をかましたら
ブチキレやがってえらい事になったのであります。

という事は「機嫌が悪そう」という心の声は正しかったのでしょうか?

それも違います、心の声を信じた時点で「私」と「世界」は分離します。
心の声を信じなければ、世界は常に一体となって在ります。
「機嫌が悪そう」と「思う私」が居ないのですから自他の区別は消えています。

でも結局彼女キレてるやんけ、と思うかもしれませんが、
心の声を信じる事で作られた偽りの私を通しての体験と、
何処にも私が存在せずに体験だけが在るのとはまったく違うのであります。

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