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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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意志決定というものは自分が行ってそうですが、実の所は何もしておらず、
全て確定されております。

簡単に言えば車に乗っていて右と左に道が分かれていたら、これはもう
どっちかにハンドルを切るしかないわけで、ハンドルを切ることは確定されて
いるのであります。

ある意味、「分かれ道という世界」において抱く「願望」はどちらかにハンドルを
切るっつー事で、既に達成されているのですよ。
願望だ何だとか気にもしないでしょうけど。

ところが願望という属性(?)がくっつくと何やらそれを達成するための
無限の道があるように感じ、結果としてあるはずもない自由意志を用いて
どうにかしようとしてしまうのですね。

人間の世界というか自我のゲームのルール、つまり道路における分かれ道は
複雑そうに見えて単純で、早い話が死にたくない、認められたい、
そして身の回りをコントロールしたいってのが殆どですよね。

その逆も然りです、例えば死にたい死にたい言ってる人に限って、
なかなかくたばらない死ぬ死ぬ詐欺なのは、死にたくなる出来事ばかり
見たいからであります。死にたい気持ちをキープするのが大事で、
実際に死ぬ死なないはどうでも良いのです。

で、これらの欲求を持つのは自我のゲームにおいて当たり前なのです。
道が分かれていたらどっちかに行きたい、行こうと思うのと同じです。

問題はこれらの欲求が己自身と思い込む事です。
あなたはゲームではあるが、ゲームのルールではありません。
ババ抜きではあるがババでは無いのです。

ルールはゲームを楽しむために必ず欠乏を生みます、
欠乏を解消したいならルールに悩むのではなく、ゲームになれば良いのです。

その為にはルールに支配されない事です。
欲求が出てきたら、その欲求の大元を見ればルールから解放されます。
将棋のルールを細かく変えたら変えたで、新たな将棋を楽しむために
新たな悩みが出てきます。

しかし、将棋そのものを成立させている将棋盤は、何事も無かったように
そこに存在しているのです。



御清聴、ありがとうございました。
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一年ちょい前に友達に子供が生まれて、昨日ようやくお祝いに行きました。
私は子供嫌いなんで、友達の子供見ても欠片も可愛いとか思いませんでしたけど。

まあそれはどうでも良いのですが、たまに「在るとか何だとかは無垢な赤ん坊と
同じような状態なのか?」という質問もたまに受けます。

個人的な見解だとちょっと違うと感じるんですよねえ、
様々な刺激に対してのリアクションが、赤ん坊は泣いて伝える事であり、
成長すると言葉で言ったり、あるいは我慢したりしますが、
どちらにせよ刺激(腹が減ったとか)を刺激として認識する時点で
赤ん坊も大人も大して変わりません。つまり「刺激と、刺激を受ける私」
確固たる概念として存在しているのですね。

なので「あなたは生まれる前から既に”それ”だったのだ」とかカッコつけた事を
言った所で、赤ん坊状態の時に既に世界との分離を果たしているので、
やはり”それ”に気付くための何らかの修行というか、刺激みたいのは
必要なのかもしれませんねえ。

あらゆるメソッドはどんどん本質から離れていくだけなのですが、
しかしメソッド的なものを通していかねばならない(かもしんない)という
矛盾を突き破る事が本来の修行みたいなモンなんでしょうか。
修行、修行って書いてると何かドラゴンボールみたいですけど。






余談ですが、子供を通じて世界を見てみると、やっぱり我々の本質みたいなのは
”与える”事にあるんだなあと感じます。

友人夫婦も「この前、この子がパパと言ってくれた!」とか喜んでましたが、
何でそんな嬉しいのかっつーと、自分の子供が言語という
”他人に与えられるもの”を獲得しつつあるからって事なんじゃないかと
思います。

これがパパとかママじゃなくて、いきなりガキがポルトガル語とか喋りだしたら
親は日本語を喋って欲しいと思うはずなんですよ、日本で生活する以上は
日本語が最も”人に投げ掛け(与えて)コミュニケーションを取る”為に重要だからです。

これは前も書きましたがお金と同じですよね、お金は人に与える事が出来るから
得た時に嬉しさを感じ、受け取る人が居て初めて実体のあるものとして
機能するのであって、言葉もそれを与える(話しかける)人、
そして受け取る人が居て初めて”ただの音”から実体として機能出来るわけです。

つまりお金も言葉も、実体としては存在出来ないのです。
お金や言葉に限らずあらゆるものをこのような視点で見てみると、
実体のあるものなんて実は殆ど存在しなかったりするんですよね、
ドラマのガリレオじゃないですけど、実に面白いっすね。
常にああでもないこうでもないと叫んでいるのは自我であって
その叫びを押さえ込もうとしても不可能です、
そもそも押さえ込む必要があるのでしょうか。

例えば俺は貧乏で女にも縁が無くてしかも不細工だ、
自我が叫んでいるとします。
これを押さえ込むために祈ったり踊ったりしても
ますます叫びは強くなるでしょう。

それならば認めてしまえば良いではないですか。
認めた所で、何か困った事が起きるでしょうか。

何も起きるわけ無いのです。
何も起きないという事は、何かしら危害を加えられる対象など
最初から居なかった、という事です。

自分の影を追いかけて押さえ込もうとしても、影は捕まえられません。
影を押さえるならその場で自分自身を抱き締めれば良いのであります。

つまり自我の叫びがうるさいならさっさと認めてしまえば良く、
認めた所で何も起きないのですから、どんどん認めて
”終わらせて”しまえば良いのです。

自分はトンデモない馬鹿だとか不細工だと自我が言うなら、
認めてしまえば良いではないですか。

”それは違う!”とか喚くからいつまで経っても捕まらない影を
追い続けるのであります。まさに終わらない一人相撲です。

大体、それは違うと否定した所で何だってんですか、
否定しないとブッ飛ばされるとかあるんですか。
何も起きないし危害を加えられる対象も居ないのに、
何故か必死に否定しようとする異常さに気付くべきであります。
何度も書いてますけど、自我は自由意志があると感じていますが
実際は自由意志は無いし、何が起こるかも全て確定済みであります。

しかし、同時にとてつもなく自由でもあります。
これはコップの中の水をイメージするとわかりやすいと思います。
コップの中の水はある時は波打ち、ある時は渦になり、ある時は泡立ったりします、
つまりどんな形にもなれるのであります。

しかしながら、やはり水は水であるという事から一歩も抜け出る事は
出来ないのも事実であります。

コップの中の水である以上、水が取りうる形態(?)みたいのは
全て確定されております。
これは自由意志が無い事を示すと同時に、時間も存在しない事も
意味します。

コップの中の水は様々な形になれますが、様々な形も、やはりコップの中の水と
して在る以上、同時に存在しているのであります。

つまりあらゆる世界は複数形ではなく、同時に存在しているのです。
複数という概念自体が無くなると、逆説的ですが単独という概念も消えます。
あらゆる世界が己の中に在る、という事はもはや一つの世界に固執して
ああでもないこうでもないと喚いている自我も消えていくという事です。

コップの中の水が、水であることをやめられないように、
我々も最初から”在る”事はやめられないのであります。

様々なメソッドや試みは、全て”水であること”をやめようとする行為です。
”やめようとしている”事に気付けるのが最大のメリットであって、
それ以外は大した意味を持ちません。
選挙好きを公言する私としては、今回の東京都議選は当然見逃せません。

結果は予想通りというか何というか自民党が完勝、続いて公明党も
デーサク先生の驚異の創価パワーで候補者全員当選、
民主党は惨敗、そんでもってこの前の記事でネタにした共産党が躍進と、
まあ全体的に見て順当でしたね。

共産党って所は機関紙である赤旗の売上やら何やらで
昔から妙に資金力があるんですよね。

負けても負けても候補者の数だけは揃えてくるので、
今の民主党のように有力野党がブッコケると受け皿として
機能するのが、確かな野党共産党の役目ですね。

この調子だと来月の参議院選挙も共産党が躍進しそうですねえ、
そうなったら「それ行けC(志位)さん」でも書きましょうか。







え、社民党? そんな政党あったっけ?

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