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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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通常、様々な物や出来事に様々な概念をくっつけて見てしまうのが
我々の一種のクセのようになっています。

例えばお金とかでも、自尊心とか承認されたいという欲求等を通して
預金額を見たりしてしまいます。

なんか金額が少ないとダメ人間と言われてるようで満たされない、
逆に金額が多いと社会的に成功したようで何だか嬉しい、
かと思えば親から貰ったとか、ギャンブルで偶然当たったとかのお金だと
何だか自分の実力じゃないような気がして、やっぱり虚栄心が満たされない。

単なる数字の羅列に色々と思うのは、数字を通して勝手に作った架空の物語を
見ているからであります。

別にお金というものは働いて稼ごうが人から恵んでもらおうが特に変わりはありません。
私なんてガキの頃はバイトもしないで殆ど祖父やオヤジの金で遊んでました、
おかげでどうしようもないボンクラに育ちましたが。

労働の報酬として貰うのが正義で、ギャンブルの儲けや親からの仕送りは悪だとかは
関係ありません。
お金はお金であって、それ以上でもそれ以下でもないのです。

なので勝手に金額を通して勝手な物語をそこに見る事は、見るのは結構ですが
何の利益も生み出さないでしょう。

前も書きましたけど、お金は誰かに渡す事で初めて実体を持ちます。
お金とは、貯めるのではなくどんどん渡すべきものなのであります。

なのでお金が欲しかったら、どんどん渡しましょう。
お金はケチの所ではなく、ばら撒いてくれる人の所に集まるものです。

「でもそうは言っても気前よくお金をばら撒くなんて出来ません。」という方も
居ると思いますが、それならばあくまでも”現時点で”気前よく
出せる金額を知れば良いのであります。

例えば全財産が5万円の人に1万円出せと言ったら躊躇するかもしれませんが、
50円なら出せるでしょう。それなら50円を募金でもすれば良いのです。

私の友達で毎日株式チャートと睨めっこしてて、株価が上がってても
「今日売って明日もっと上がってたらどうしよう」とか、
下がったら下がったでこの世の終わりのように大騒ぎするアホがいるのですが、
話を聞くと某社の株式を金額にして300万円ぐらい買っていると、
そんでもってその会社の株価の値動きが最近激しくて毎日胃が痛いとか言っているのですよ。

て事は彼にとって300万円は、現時点ではとても損失を許容できる範囲では無いって
事ですよね。それだったら最初から投資額を半分か、あるいは十分の一ぐらいにすれば
良いではないですか。

多分彼はお金があればあるほど幸せであり、社会なり誰かに認められると
思い込んで、胃が痛い思いをしながら毎日悲劇(喜劇?)的なマラソンに
参加しているのでしょう。

そこまで言うならオマエ言ってやれよと思うかもしれませんが、私は性格が悪いので
言いません。というより言った所で彼は「リスクを取ってお金を稼ぐ事が幸せであり、
認められる事」な世界を望んでいるのですから、私が口出ししてもしょうがないです。

で、前述した全財産5万円の人が5万円全部つぎ込んで株を買ったり、
競馬で全額賭けたらそりゃあ胃も痛くなるでしょう。
でも50円しか賭けなかったら、当たったらラッキーで外れても明日には忘れてます。

ここで話が最初に戻るわけですが、現時点でどれだけの金額をホイホイ捨てられるかで、
どれぐらいの金額から自尊心だの虚栄心だの執着だのといった余計な概念が出てくるかを
知る事が出来るのです。1億円だとカイジみたくざわざわするのに、10円だと
ざわざわしないってのは、面白いですよね。

それを知った時から、お金の奴隷から解放される道を踏み出す事が出来るのであります。
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前回の話と少し被りますが、自我というものはスピ系における、ある種の気付き的なモノも
巧妙に利用します。

例えば「世界は自分だった、自由意志も無かった、なんたらかんたら」というのも
あくまで自我を通して発せられた言葉なので、正確に言うと事実では無いし、
もっと言えば真っ赤なウソとも言えてしまうのですよ。

それにも関わらず、それが自我の”認められたいとか、安全でありたいという欲求”に変質し、
妙な事になってしまうケースが多いように感じます。

例えば「何が起きても受け流すだけだから、世界は私だから、幸せも不幸も無いから」とか
言いながらセックスしてても気持ちよくも面白くも無いですし、
「世界は自分だから、勝っても負けても幸せ」とか言いながら
サッカーや野球見てても楽しくないですよね。

興奮したり悲しんだり喜んだりっつーのは勝手に出てくるのだから
出てくるに任せておけば良いのであって、それをスピ系の変な知識やメソッドで
どうにかしようと言うのがおかしいのであります。

これでは「世界が自分だから」という言葉・概念が、流れてくるものに対しての
”免罪符”みたいな事になってしまい、自我を守っているだけになってしまいます。

そもそも「世界は自分だから何々があってもどうのこうの」という自体がおかしいのです。
何々があるって事は「何々(体験)」と「それを体験する私」が居なくてはならないのだから
何かが”ある”という認識事態が厳密に言えばおかしいのであります。

頭が混乱してくるかもしれませんが、要はスピ系の知識とかメソッドなんて、
最終的には全部放り出して忘れてしまう事が肝要なのです。
深く熟睡している時に「世界は自分だった」とか何だとか小難しい事は
出てこないはずです。熟睡している時に出てこないものは、全部捨てて良いモノなのです。

大体役に立ちゃしないし。
最も役に立つ事は、役に立たないという事を知る事なのだ、という事であります。

何度か書いていますが、あらゆるメソッドはスピ系で言う「神」だとか「本来の自分」からは
絶対に離れます。しかし、実はあらゆるものが役に立たないのだ、という事を
知るためには、やはり色々実践していく先にあるのかもしれません。

ややこしくなってきたのでこの辺でまとめると、全部捨てて良いモノばかりだったって事は、
逆に言えば得るモノなど無かった、という事であり、
ここで初めてふりだしに戻り、ふりだしこそゴールだった事を知るわけであります。
意志決定というものは自分が行ってそうですが、実の所は何もしておらず、
全て確定されております。

簡単に言えば車に乗っていて右と左に道が分かれていたら、これはもう
どっちかにハンドルを切るしかないわけで、ハンドルを切ることは確定されて
いるのであります。

ある意味、「分かれ道という世界」において抱く「願望」はどちらかにハンドルを
切るっつー事で、既に達成されているのですよ。
願望だ何だとか気にもしないでしょうけど。

ところが願望という属性(?)がくっつくと何やらそれを達成するための
無限の道があるように感じ、結果としてあるはずもない自由意志を用いて
どうにかしようとしてしまうのですね。

人間の世界というか自我のゲームのルール、つまり道路における分かれ道は
複雑そうに見えて単純で、早い話が死にたくない、認められたい、
そして身の回りをコントロールしたいってのが殆どですよね。

その逆も然りです、例えば死にたい死にたい言ってる人に限って、
なかなかくたばらない死ぬ死ぬ詐欺なのは、死にたくなる出来事ばかり
見たいからであります。死にたい気持ちをキープするのが大事で、
実際に死ぬ死なないはどうでも良いのです。

で、これらの欲求を持つのは自我のゲームにおいて当たり前なのです。
道が分かれていたらどっちかに行きたい、行こうと思うのと同じです。

問題はこれらの欲求が己自身と思い込む事です。
あなたはゲームではあるが、ゲームのルールではありません。
ババ抜きではあるがババでは無いのです。

ルールはゲームを楽しむために必ず欠乏を生みます、
欠乏を解消したいならルールに悩むのではなく、ゲームになれば良いのです。

その為にはルールに支配されない事です。
欲求が出てきたら、その欲求の大元を見ればルールから解放されます。
将棋のルールを細かく変えたら変えたで、新たな将棋を楽しむために
新たな悩みが出てきます。

しかし、将棋そのものを成立させている将棋盤は、何事も無かったように
そこに存在しているのです。



御清聴、ありがとうございました。
一年ちょい前に友達に子供が生まれて、昨日ようやくお祝いに行きました。
私は子供嫌いなんで、友達の子供見ても欠片も可愛いとか思いませんでしたけど。

まあそれはどうでも良いのですが、たまに「在るとか何だとかは無垢な赤ん坊と
同じような状態なのか?」という質問もたまに受けます。

個人的な見解だとちょっと違うと感じるんですよねえ、
様々な刺激に対してのリアクションが、赤ん坊は泣いて伝える事であり、
成長すると言葉で言ったり、あるいは我慢したりしますが、
どちらにせよ刺激(腹が減ったとか)を刺激として認識する時点で
赤ん坊も大人も大して変わりません。つまり「刺激と、刺激を受ける私」
確固たる概念として存在しているのですね。

なので「あなたは生まれる前から既に”それ”だったのだ」とかカッコつけた事を
言った所で、赤ん坊状態の時に既に世界との分離を果たしているので、
やはり”それ”に気付くための何らかの修行というか、刺激みたいのは
必要なのかもしれませんねえ。

あらゆるメソッドはどんどん本質から離れていくだけなのですが、
しかしメソッド的なものを通していかねばならない(かもしんない)という
矛盾を突き破る事が本来の修行みたいなモンなんでしょうか。
修行、修行って書いてると何かドラゴンボールみたいですけど。






余談ですが、子供を通じて世界を見てみると、やっぱり我々の本質みたいなのは
”与える”事にあるんだなあと感じます。

友人夫婦も「この前、この子がパパと言ってくれた!」とか喜んでましたが、
何でそんな嬉しいのかっつーと、自分の子供が言語という
”他人に与えられるもの”を獲得しつつあるからって事なんじゃないかと
思います。

これがパパとかママじゃなくて、いきなりガキがポルトガル語とか喋りだしたら
親は日本語を喋って欲しいと思うはずなんですよ、日本で生活する以上は
日本語が最も”人に投げ掛け(与えて)コミュニケーションを取る”為に重要だからです。

これは前も書きましたがお金と同じですよね、お金は人に与える事が出来るから
得た時に嬉しさを感じ、受け取る人が居て初めて実体のあるものとして
機能するのであって、言葉もそれを与える(話しかける)人、
そして受け取る人が居て初めて”ただの音”から実体として機能出来るわけです。

つまりお金も言葉も、実体としては存在出来ないのです。
お金や言葉に限らずあらゆるものをこのような視点で見てみると、
実体のあるものなんて実は殆ど存在しなかったりするんですよね、
ドラマのガリレオじゃないですけど、実に面白いっすね。
常にああでもないこうでもないと叫んでいるのは自我であって
その叫びを押さえ込もうとしても不可能です、
そもそも押さえ込む必要があるのでしょうか。

例えば俺は貧乏で女にも縁が無くてしかも不細工だ、
自我が叫んでいるとします。
これを押さえ込むために祈ったり踊ったりしても
ますます叫びは強くなるでしょう。

それならば認めてしまえば良いではないですか。
認めた所で、何か困った事が起きるでしょうか。

何も起きるわけ無いのです。
何も起きないという事は、何かしら危害を加えられる対象など
最初から居なかった、という事です。

自分の影を追いかけて押さえ込もうとしても、影は捕まえられません。
影を押さえるならその場で自分自身を抱き締めれば良いのであります。

つまり自我の叫びがうるさいならさっさと認めてしまえば良く、
認めた所で何も起きないのですから、どんどん認めて
”終わらせて”しまえば良いのです。

自分はトンデモない馬鹿だとか不細工だと自我が言うなら、
認めてしまえば良いではないですか。

”それは違う!”とか喚くからいつまで経っても捕まらない影を
追い続けるのであります。まさに終わらない一人相撲です。

大体、それは違うと否定した所で何だってんですか、
否定しないとブッ飛ばされるとかあるんですか。
何も起きないし危害を加えられる対象も居ないのに、
何故か必死に否定しようとする異常さに気付くべきであります。

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自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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