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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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私のいとこの一人に、いわゆるパワースポットが好きなのが居るんですが、
パワースポットの「パワー」って何なんでしょうか。
いとこが言うには大地の気とか力とか、何だかドラゴンボールみたいなもの
らしいですけど。

こんなブログ書いてる割に私はそういった類のモノは疎いのですが、
まあ「パワースポット」もあなたが創ったもので、大地の気だ何だも全てあなたです、
って言っておけば何だかそれなりになってしまうので実に便利であります。
「○○はワシが育てた」みたいのと一緒ですね。

パワースポットも風水も「ここからパワーが出ている」とか「この方角は縁起が良い」
とか決めるのも、恐らく何らかの概念なりメソッドが存在すると思うのですが、
今の時代はトイレにも神さまがいる時代なので、別に既成概念にとらわれずに、
オリジナルパワスポとかオリジナル風水とか編み出しても良いのではと個人的には
思います。

例えば風水的に良くないとされる方角でも、方角なんて単なる概念なんで
自分で勝手にオリジナルの方角を決めて対抗するってわけには行かないんでしょうか。

私は今日から東西南北を廃止し、風水が通用しない男を目指します、なんつって。
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前回、ちょっとだけダークナイト(バットマン)の話題を書きましたが、
バットマン最大の宿敵と言えばジョーカー、ジョーカーと言えばババ抜きであります。

実は、ババ抜きというゲームは存在しないのです。
存在しないと言うと語弊がありますが、トランプをいくら眺めても
ババ抜きというゲームが「そこにある」と言う事は出来ません。
同じように麻雀牌をいくら眺めても、麻雀というゲームを示す事は出来ません。

ババ抜きとはババ抜きをプレイする者がルールを理解し、ルールに従って
プレイする事で、初めて観念としての「ババ抜き」は存在するのであり、
「ババ抜き」というゲームが目に見える形で出現する事はありません。

で、話が一気に飛びますが、ババ抜きと同じく幸福とか不幸も存在しません。
それはゲームをプレイする者の観念としてだけ存在し、形があるものではありません。

ゲームをプレイしていると、どんなに幸福になっても不幸は付きまといます。
幸福とは、不幸が無ければ幸福を感じられないからです。
同じように不幸も、幸福が無ければ感じられません。

なのでいつでも幸福、というより幸福とか不幸とかを超越するには、
前から書いていますが、ゲームを止めれば良いのであります。
つまり「ババ抜き」は存在しない、という事を喝破すれば良いのです。

「ババ抜き」とはゲームをプレイする者の観念にしか存在できない、
それは自由意志が存在しないという事にも繋がります。
「ババ抜き」という存在しないゲームを存在するように感じ、
自分の意志でプレイしているかのように感じていただけだったのです。

ここまで来ると、もはや「願望」という言葉は意味を成しません。
何故なら「願望」とは存在しないゲーム「ババ抜き」で勝つために(幸せになるために)
必要だと思い込んでいた幻想だからです。
別にゲームに勝つために願望は必要無かったのです、ゲーム自体無かったし。

ゲームが存在しないと気付いた時から、願望は単なる意図になります。
つまりぶっちゃけて言えばどうでも良いものです。
何故なら勝つために必死だった「ババ抜き」は何処にも存在しなかったからです。

単なる意図なのだから、もう気にする事はありません。
ゲームは存在しないのだから、本当の意味で幸福と不幸が統合した一つ、
最初っから真の幸せなのであります。

神にお願いする事も、自己暗示も、洗剤意識で洗剤を買おうとかする事も、
インナーチャイルド(?)みたいのを癒す事も、必要ありません。

というよりそんなものは存在しません、全てババ抜きという
幻のゲームに勝つために作り出した分離だからです。

もはやババ抜きは観念の中でプレイされるものでなく、
ババ抜きがあなたであります。

様々な感情、思考は幻のゲームで勝つために必死になっていないでしょうか、
ゲームは存在しない事に気付けば、実は全てがあなたであり、もはや思考や感情を
眺めている者すら居なくなります。

眺めるという行為は分離であります、分離しているから眺められるのです。
何故、眺めるのか?
まだ眺める事でひょっとしたらゲームに勝てるのではないか、という
存在しないゲームに踊らされているのです。

勝ちも無ければ負けも無く、幸福も無ければ不幸も無い、そして「ババ抜き」は
存在しない。しかし存在しない「ババ抜き」を行うための「トランプのカード」は存在する。

トランプは全てのカードゲームを包括していますが、トランプ自体には幸も不幸も無く、
全てが統合されています、それが本当のあなたであります。
私は殆どテレビを見ない人なのですが、昨日テレビを何となくボケっと眺めていたら
「ダークナイト・ライジング」の予告がやっておりました。

前作「ダークナイト」は非常に高い評価を得ているようでありますが、
私はどうもダメで、確か公開当時に知人からタダ券貰って映画館で見た記憶が
ありますが、途中で寝落ちしちゃいましたね。
気が付いたらジョーカーが逆さ吊りになってました。

後日DVD借りて今度は全部見ましたけど、やっぱりダメで、
何でこんなに評価が高いのか今だによくわからんであります。
別につまんなくはないんですけどね。

以前も書いたかもしれませんけど「ワンピース」の面白さもサッパリわからないので、
どうも世間一般の流行に乗れない時代遅れのオッサンになってしまいました。
まあダークナイトに関しては私がアメコミ知らないっつーのもあるんでしょうけど。

若い人は知らないでしょうけど、私ぐらいの世代だとアメコミと言えば
スパイダーマン、しかもレオパルドンに乗る方であります。

というわけで本当にどうでもよい個人的な話でした。
前も書きましたが、生と死、そして夢の中は全て同じであります。
それらを、それらとして成り立たせているバックグラウンドが真の私です。

夢の中で様々な出来事があり、例えば空からお金が降ってきたとします。
もちろんこのお金は幻想であります。しかし夢の中ではおそらく喜ぶでしょう、
幻想に対し感情や思考が出てくる、つまりそれらも幻想です。

で、起きてから会社行ってボーナス貰ったとします。
おそらく喜ぶでしょう、しかし夢と生(起きている)は同じなので、
やっぱりボーナスは幻想で、ボーナス貰った嬉しいなとか
何買おうかしらとかの感情、思考も幻想であります。

昨日書いた奴の繰り返しになりますが、幻想であるとわかってるっつー事は、
ボーナス貰って喜んでいる者は居ない、という事です。

で、ここで勘違いしやすいのが「お金貰っても喜ぶな」という意味では無い、
という事です。喜んでも良いし、喜ばなくても良いのです。
どっちに転ぶかはわかりません、別にどっちでも良いのであります。

夢の中でも、空からお金が降ってきて、それが100万円の札束だったら
喜ぶでしょうが、千円札一枚だったら微妙かもしれません。

どちらにせよ夢なので、喜びの感情も、或いは微妙だわ~とか
ぼやいてる思考も幻想、俺はどうして千円程度の価値しか無いんだとか
喚いてる自我も幻想、もっと言えばそれらとあなたは何の関係も無いですよね。

起きている時も全く同じであります、夢の中よりちょっとだけ自我がハッキリくっきり
喚いてるように感じるかもしれませんが、ただそれだけであります。

なので、別にどのような感情が出てこようが構わないのであります。

さて、一切合切構わん、知らんという境地になってしまうとどうなるのか、
それはもはやあなたを困らせるものは無くなった、という事です。
ボーナスの大小で悩んでいても、それらに関することが全て幻想なら
もうその悩みは終わりです。悪夢から逃げたいと願うなら、一番簡単なのは
夢だと気付いてさっさと目覚めてしまう事です。

ではこれでボーナスが増えるのか?と自我が喚くでしょうが
ハッキリ言って、増えるわけありません。
しかし、もはやボーナスの大小で悩む者は居なくなったのですから、
自我の絶叫で右往左往する者も居なくなったという事です。

後に残るのは生と死、そして夢の中でそれらを成立させているバックグラウンド、
言い変えれば、意識とか神とかすき家の看板とか言われているものであり、
この瞬間にあなたはゲームそのものになったのです。
麻雀ぽく言うなら「流れ」に乗ったのであります、麻雀よく知らないけど。

困る事も悩む事も無いなら、結果としてボーナスは増えるかもしれません。
或いは会社辞めて独立して毎日が給料日になるかもしれませんが、
どうなるかは知りません。

夢の中で予測したって意味が無いからです、というより夢の中では時間という概念が
無い
ので予測は成り立ちません。成り立つと思っているのは自我だけで、
やはりその「予測して、どうなるか考える事は成り立つはず」という思考は幻想です。

結局、あなたを困らせるものは最初から何も無かったのであります、
困りたいから困っているだけだったのです。

恐らくこれを読んで「じゃあどうしよう、どうしよう」となってしまう人も
いるかもしれませんが、まさに困りたいから困っているわけですよね。
夢だからこそ、どうも出来ないのです、そして夢(幻想)だからこそ、
どうなったって放っとけるのです。
私の表現が極端なのか、ただ単に文章が下手なのか、恐らく両方だと
思いますが、「生きているのと死んでいるのは一緒」とか「自由意志は無いよ」
いう内容を書くと「どっちも同じなら死んだほうがマシ」とか「運命に翻弄されるなら
死にたい」とか、極端な感想を多々頂きます。

何でこのような反応が多く出てくるかっつーと、結局生死とか運命とかを
手放したくないから、早い話が必要で必要でしょうがないからなんですよね。

「死んだ方がマシ」でも「そうですか」としか言いようが無いですが、
ぶっちゃけ生も死も無いわけですから、わざわざ死を選ぶ事は無いわけないです。
というより無いものは選べないわけですが、何故無いものを抱きしめて
苦しむのでしょうか。

「死んだ方がマシや!」と思うのは生死の概念を捨てたくない、
それが無いと困るので、勝手に概念を抱きしめて勝手に苦しんでいるわけです。
だったらそんな概念は捨ててしまえば良い、という事です。

運命云々に関しても、生死と同じで、運命というものが無いと困る。
あくまで運命に翻弄されずに自分の力で道を切り開きたいという思いを
捨てられないからです。

結局、根底にあるのは「自分」を失うことへの漠然とした、しかし猛烈な恐怖であります。

そして殆どの人は「願望」と「自分」が一体化しているので、
「自分」を失うことは同時に「願望」が消えてしまうような、つまり何も叶わずに
死んでしまう的な恐怖を感じているのだと思います。

で、これも話が戻りますが、結局は「願望」が無くては困るっつー事ですよね、
「自分」は常に「自分を自分らしく」感じさせてくれる概念を探しまくって、
それにしがみつこうとしているのであります。

が、しかし。 それはあくまでしがみついているだけであって、
それ以上でもそれ以下でもありません。
しがみついている限り、常に振り回されて苦しむ事になります。
だったら手を離して本当の意味で自由になれば良いのです。

自由になれば、あなたはもはや願望を抱く者ではありません、
願望は浮かぶ、それだけです。そしてそれらは、もはや抱く者がいないので
通り過ぎていくだけです。通り過ぎていけば、それらは引き寄せ的な表現を
使えば現象化されるでしょう、しかしそれを喜ぶ者はもはやいません、
喜びが通り過ぎるだけです。

様々な思い、感情が浮かびます、それを抱く者はいないので、
全て通り過ぎていきます。そうしてあなたが世界という形で表現されます。
音という形で表現されれば音楽です、紙に書いた文字なら詩になり、
紙に絵を書くという形なら絵画とかマンガになります。

あなたとは世界であり、世界を構成している音であり絵でありギャグマンガであります。
別に劇画でも良いですけど。

優れた芸術に心を揺さぶされるのは、そこに自分自身の真実の姿を
垣間見るから
であります。

なんかややこしい話になってしまいましたが、色んなモノにしがみついているから
返って自分自身を見失うので、しがみつくのをやめようぜという
要点をまとめると二行で終わる話でした。

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