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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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「自由意志は無い」をここ数日のテーマに書いていますが、
これも思考で考え出すと堂々巡りの迷路に迷い込んでしまいます。

「全ては神の意志で、神の意志がイコール本当の私だったのね」とか
「俺の感情や思考は全部すき家の本社から送られて来ていたのか」とか
理屈で納得しても必ず迷います。

例えば私が目の前で殺人の現場を目撃し、それに対しスタコラサッサと逃げたら、
それも神の意志です。
あるいは犯人とその場で壮絶バトルを展開して、その結果、私が犯人をブっ殺しても
逆にブっ殺されても、それも神の意志です。

こう書くと恐らく読んでる人は「殺人を目撃したら通報すべきだろ」とか
「結局は運命論ではないか」とか色々と思うところがあると思います。

しかし、その「思うところ」も神の意志なのであります。
神の意志が何をしているのかは、エゴにはわかりません。
でもエゴは知りたがるので、色々と思考を使ってあれこれ思い悩むのです。

神の意志に気付くと、「何々をしている私」が消えてしまうので、必然的にエゴが
どっか行っちゃいます。あらゆる感情や思考、そして出来事はもう殆ど意味が無くなってしまいます。
しかしながら、これは決して不感症になるというわけではありません。

怒りや悲しみも、感じて良いのです。というか神の意志から勝手に湧き上がってくるのだから
別にエゴで無理矢理押さえ込む必要はありません。

私も目の前でいきなり「この馬鹿野郎!」とか言われたらちょっとムカッとなると思いますし、
「おまえはドスケベだ!」に対しては「そのとおりだ!」と反応すると思います。

そしてその感情は湧き上がったというだけで、それだけのものです。
ちょっとニュアンスが伝わりにくいと思いますが、「怒っている」という感情が神の意志から
湧いているわけです、そして神の意志と自分は一体です(エゴ視点の「私」が神の意志を
感じているわけではありません、「私」が消えると嫌でも神の意志になってしまうのです)

つまり「怒っている」感情は即、「私(神の意志)」なのです。「怒りを感じている私(エゴ)」ではない、
という事に注目してください。(ちょっと伝わんないかなあー)

ですから何かムカッと来る事があっても「全然怒ってないよ、全部幻だしー。つーか僕って
悟ってるしー、ついでに名前も悟だしー」みたいな
感情を無理矢理押し殺すような思考は、悟るどころかエゴの塊なのです。

しかし、です。
このような「そういった思考はエゴの塊である」という私(この場合エゴ視点の「私」)の
思考も、やっぱり神の意志なわけです。

もうなにがなんだかわからないと思いますが、結局理屈で説明しようとすると
こういった出口の無い迷路に必ず迷い込んでしまうわけです。
これは自分の影を追い続けても絶対に捕まえられないのに似ています。

結局、探そうとすると、決して見つからないというわけですね。
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「どうすれば”無”だとか何だとか感じる事が出来るのか?」という
メールを頂きましたが、これはもう既に、この質問の中に答えがあると言って
良いでしょう。

「どうすれば感じる事が出来るのか?」と思っているのは、一体誰か、という事です。
「私は」「どうすれば~」と感じています、この私が思ってるんです。という人も
いるでしょう。

しかし実際は「どうすれば~」という思考でも感情でも何でも良いのですが、
それが浮かんでいるだけです。浮かんでいるだけのものに、何故わざわざ「私は」という
主語をつけて話をややこしくしているのでしょうか。

そうすると、「じゃあ何処から浮かんできているんですか?わけがわかりません」というかも
しれません。これも「私が」「何処から浮かんでいるか知りたい」「私が」「わけがわからん」と
言っているのと同じです。

何処から浮かんでくるかなんて、それこそ「知らんモンは知らん」であります。
スピ系っぽく言うなら神の意志でしょう、つまり「私は、私が」と「私」が探している間は、
決して見つからない
のです、しかしそれはすぐ目の前にあるのです。

様々な思考や感情が神の意志から浮かんでは消えていきます、しかしそれは決して
「私」のものではない、「私」はエゴがくっつけた概念、エゴそのものです。つまり幻です。
何が浮かぼうが、何を感じようが、そして何が起ころうが、それは「私」ではない。
「知らん」のです。

ですから「わけがわかりません」はそのまま「わけがわかりません」という思考が
浮かんでいるだけで、答えなんか知らんのです。

わけがわからん場所から色んなものが浮かんでいる事に気づく、あるものは感情や思考、
そしてあるものは他人(という概念)や建物(という概念)かもしれません。
そしてそのわけがわからん場所に最初っから居た事に目覚める、
つまりあなたは初めから神の意志そのものだったというわけです。

ですから神の意志から浮かんだ全てのものには「神を感じる」とか「愛に満ちている」とかの
表現がスピ系や宗教では好んで使われるわけです。
もちろんお約束の「すき家の意志」だったでもOKです。

隣のオヤジのハゲ頭も、道端の犬のウンコも、近所で評判の美人なお姉さんも、
壁に穴が開いている障子も、綺麗に手入れされた庭も、そしてすき家の看板も、
そこらじゅう神だらけだったのであります。
前々回の記事の扇風機の例えで、扇風機が「風を出している」と思っているのは
単なる勘違いである、という事を書きました。

これは昨日の記事の「自由意志が無い」という話にも繋がっているのですが、
前も書いたように扇風機は空気が無ければ風は起こせませんし、電源が抜けていれば
動きもしません。

ここに扇風タロウと扇風ジロウという二人の扇風機ブラザーズが居るとします。
二人は常にどちらが強い風を出せるか競争していました、結果は五分五分でした。
タロウもジロウも必死に羽を回し、ナントカメソッドを研究し、今日も熾烈な競争を
続けていました・・・が、結局の所彼らの風の強さは電源が入っているか否かだけの話です。

タロウの方に電源が入っているときはジロウはどうやっても勝てませんし、逆もまた然りであります。
しかしタロウもジロウも自分達の意志で風を出そうと頑張っているのだと
思い込んでいます。

もうおわかりと思いますが、タロウもジロウも自由意志は持っていません。
彼らの行動の結果は全て電源次第です。この電源がスピ系で言われる「神」であります(もちろん
このブログの読者なら「神」の部分を「すき家」とか「松屋」にすべきです)

この「神」に目覚めるとどうなるのでしょうか?
それは扇風タロウも扇風ジロウもいなくなってしまうという事です。

何故なら電気を供給している電源から見ればタロウもジロウも同じ扇風機です、
タロウとジロウはお互い別のもの、別の個人と思い込んでいますが、電源から見れば
別の個人という感覚はありません。つまり、この感覚が世界は自分に繋がるのです。

全ては電源次第であるなら、いちいち今日は風が出ないだの、もっと頑張ろうだの羽を掃除しろだの
考えなくなってしまいます。「今日は調子悪い、もっと頑張らねば」 これは自由意志が
あると勘違いしているから思うわけで、電源が入ってなければ調子もクソも頑張ろうもありません。

電源入ってないんだから動くわけねーじゃん という事です。
そこにはタロウの意志もジロウの意志もありません、というより生じる余地がないのです。

意志が無いという事は「頑張ろう!」と思っている扇風機ブラザーズは
最初から存在しなかったのです。
全てはエゴが演出した幻でした、そして幻に気付いた瞬間にエゴも消えてしまうのです。

ここまで読んで「そ、そんな・・・自由意志が無いなんて・・・。
じゃあ私はいくら頑張っても電源が抜けた扇風機のように回らないのですか、
人生は最初から最後まで一本道で終わるゲーム、最近のファイナルファンタジー
ようなものなんですか」と、思っている方もいるかもしれません。

しかし、上記の考えはまさしく自由意志があると勘違いしている典型です。
自由意志があると勘違いしているから「どうすればいいんだ」という束縛から逃れられないのです。
自由意志という思い込みに縛られていると、いつまで経っても「私は~」とかの「個人」という
縛りから逃げられません。

自由意志が無い、という事に気付くからこそ「個人」という幻想を破った「本当の私」
「真の自由
」を獲得できるのです。

それでも「私の願いはどうなるの!?」とか「FFはファイナルファイトの略だろ!」とか
色々騒ぐと思いますが、その雑音は勝手に起こっているだけで「本当の私」とは
何の関係も無いのです。

だって騒いでいる個人はもういないんですから。雑音から自由になったのです。

スピ系の本でよく「願望を手放す」とか「リリーステク」とか書いてあるじゃないですか、
これでもう手放せましたね、おめでとうございます。
前も書いたかもしれませんが、自由意志というものは存在しません。
「自分の意志で色々やっている」と思っているものは、結局は周りの
状況や刺激やその他色々の要素に操られているだけであります。

例をあげると、あなたが車で高速道路を走っているとします。
この時何故、あなたはハンドルを握り運転しているのでしょうか。
「そりゃ高速走ってるからに決まってるだろ」という答えが返ってくると思います。

その通りです、「高速道路」「車の運転席にいる」という状況があるから
あなたはハンドルを握って運転しているわけです。つまり状況に操られて動いているだけ
なのです。

自由意志があるならいきなり運転席で逆立ちを試みるとか、ハンドルを放して漫画を読むとか、
窓からバナナを放り投げて後続車をスリップさせるとかやっても良いはずです。
何故やらないのでしょうか、それは前述した「高速道路で運転席にいる」という状況に
合わせた行動をとっている、というよりとらされているからです。
自由意志はどこにもありません。

ここまで読んだ読者Aが、ある日高速道路で運転をしている時にいきなりズボンを下ろして
下半身を露出させたとします。「どうだ、俺はこんなに突拍子も無いことをやったぞ。
これぞ自由意志だ」となるでしょうか?

これは自由意志とはなりません。ただのキチガイです
何故なら読者Aが下半身を露出させたのは、「このブログを読んだ」という
刺激によって起こった行為
だからです。先ほどの「状況」に操られているのと
何ら変わりはありません。

自由意志は無い、という事は結局の所「何かをやっている」者など何処にもいない、という事です。
願望実現とか必死こいてやっている人は、いなかったのです。
最初からあるのは「無」だけであったのであります。

これを宗教家なら「神の意志」と言うでしょうし、
スピリチュアルマスターとか言われてるオッサンなら「大いなる意識」とか言うかもですし、
このブログなら大半の読者が予想した通り「すき家の意志」であります。

呼び名はどうでも良いのですが、それらと一体になる事、というか最初からそうだった事に
気付く事で、不足も何も無い完璧が垣間見えるのです。
ここ数日は「私」は実は存在しないのだ、という話を続けてきました。
正直言って、書いている私も途中で何書いてたんだっけと思うぐらい
文章にし辛い内容でした。
今回はもう少しシンプルを目指して書いてみます。

「私」が存在しない、という事は今まで「私」が感じてきた時間等の
概念も「無かった」事でもあります。

時間が無いという事は、始まってもいないし終わってもいないという事で
あります。つまり全てがもう「完成」してしまっているわけです。

という事を書くと「そ、そんな・・・じゃあ私はこれからもずっと貧乏なまま
なんですか、なにをやっても変えられないんですか」
と思う人もいるかもしれません。

それに対する答えはもちろんイエスであります。ただ、ここで私の方から
問いたい事があります。「あんた誰?」と。

「なにをやってもダメなのか」と勝手に絶望しているのは一体誰なのか、という事です。
誰がそう思っているのですか、という事です。

存在しないはずなのに何で「なにをやってもダメなのか」と思うのでしょうか、
存在しないはずなのに何故か存在を主張しているのは何か?そしてそれは
本当に存在しているのかという事です。

言い方を変えると、例えば扇風機から直接風は出ていません。
羽が回り、空気をかき回すから風が発生するわけです。
空気が無ければ風は発生しないし、もっと言えば電源が抜けてれば扇風機自体動きません。

にも関わらず扇風機が「私は風を出しています」と主張するのはおかしいではないですか。
それは扇風機の勘違い以外の何者でもありません。
つまり「風を出している」者は存在しないのです、それでも「私は風を出しています」と
主張する人は、まさに「あんた誰?」であります。

結局、「本当の私」の全ては「一体誰がそれを考えたり感じたりしているのか」という所に
行き着くのです。

「私は成功法則を発見した!」とか「アタシ、悟ったわ!」とか言ってる人でも同じ事です。
誰が「発見した」のでしょうか、誰が「悟った」のでしょうか。

色々思考が湧いてきたら問う事です、「あんた誰?」と。

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男性
職業:
食う寝る遊ぶ
趣味:
超合金魂
自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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メールはsiranwa22☆yahoo.co.jpに
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