忍者ブログ

知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

HOME • Admin • Write • Comment
家族に関する悩みのメールは結構多く
頂きますが、基本的には無関心になった方が
良いんじゃないかと思います。

これは別に冷たい態度を取れとかではなく、
特定の事柄に集中すると、どんどんそれが
力を持って大きなウエイトを占めるように
なってしまいます。

前も書きましたが好きの反対は無関心ですから、
特定の対象に力を注ぎ込まない事が肝要です。

もちろん無関心になる事で、例えばそれが
家族なら何となく家族との関係が変化して
いくように感じられる場合はあると思いますが、
それでまたどうこう悩む必要はありません。

悩むというのは、ある対象に対してせっせと
栄養を送り込んでいるようなものですから、
栄養を送り込まなければ自然と解消されていきます。





余談ですが嫁さんから聞いた話で
「次の元号に"安"の字を入れようとしている
アベ政治を許さない!」
とSNSとかで
騒いでいる人がいるそうで、別に
どんな漢字使おうが何でも良いじゃねーかと
思うんですが、これなんかまさにせっせと
力を注いでいる状態と言えます。

好きと嫌いは表裏一体ですから、
こういうのは恋と同じなんですよ。

私が厨房の頃に好きだった女の子は
名前が飛鳥さんだったんですが、
歴史の授業で"飛鳥時代"なんて出てきたら
もうドキドキしてましたよ。

今思うと実に厨房な感じで、若いって
良いなあと思いますが
好きな子ならともかく気に入らないものに
力を注いでも何も良い事が無いので、
やめた方が良いと思います。
PR
私は幼稚園か小学校一年の頃に子供向けの
オカルト本で初めてノストラダムスの大予言
知ったんですけど「1999年人類は滅びる!」
という内容に幼い私は衝撃を受け、
「なんてこった、こりゃあクックロビン
音頭なんてやってる場合じゃないやんけ!」
と絶望しておりました。

その後も厨房の頃にはマガジンのMMRとかで
やはりノストラダムス特集をやったりして 
私の世代だとノストラダムスの大予言て
特別な響きを持っていると思います。

で、今回の話の要点はノストラダムスじゃなくて
これが仮に「2999年人類は滅びる!」だったら
「なーんだそんな先の事どうでもエエわ」
スルーしてたと思うんですよ。

つまりすごい先の事考えると「もうその頃は
死んどるやんけ」と自我が判断するので
一時的に自我が消滅するのに近い感じに
なるんですよ。

そうするとあら不思議、悩みも何もかも 
消えてしまうんですね。
まあこれは当たり前で自我が認識不能と
判断するとそこから先は"無い"ことに
なりますから悩みもクソもありません。

これを逆に言えば、悩みだ願いだというのも、
結局は自我の判断から生まれる幻に近いと
いうことであります。

1999年に人類は滅びる!に対して、
どうしようこうしようと思い悩み潜在意識やとか
神に祈るんやとか色々やるかもしれませんが、
これが2999年人類は滅びる!だと
( ´_ゝ`)フーンとなるのは"消滅"しているで
あろうと自我が勝手に判断するからです。

なので常に自我に惑わされるぐらいなら
数秒後に自分は死ぬと思ってるぐらいで
ちょうど良いと思います。

数秒後に死ぬなら過去の後悔も未来の不安も
色々感じようがありませんし、無理やり
今に集中しようとかも必要ありません、
今と一体にならざるを得なくなるからです。

これは有名なトリックアートのルビンの
ツボ
で言えば、顔とツボを同時に
認識するようなものです。

こうしてあなたはルビンのツボで言えば、
向かい合っている顔(生)でも真ん中の
ツボ(死)でもなくルビンのツボが
描かれている"場"そのものになりました。

場は普段は見えませんが、何かを書けば
場があるとわかります。というか何かしら
無いと絵は書けないですから。

つまり生きているわけでも死んでいるわけでも
無く、何かを思ったり見たり観察したり
しているものでも無い、純粋な土台です。
「世界との一体感を感じ世界から敵が
いなくなりましたが大金は欲しいでござる」

という欲があるんだか無いんだかよくわからない
メールを頂きました、ありがとうございます。

敵がいなくなるという事は早い話が
あらゆるものの重要度が下がる、要は
信じなくなったという事ですよね。

子供が何でオバケを怖がるかというと
オバケを信じている事で、概念としての
オバケの重要度も上がっているからです。

これが成長と共にオバケは実はいない
やんけとわかってきて、同時にオバケという
概念が重要でなくなってくるので、
少なくともオバケに関してはいつの間にか
怖くも何ともない平穏が訪れているという
事になります。

これと同じで大金云々はお金を信じて
重要度が上がっているわけであります。

まあ最後まで"信じる"のは大体お金と
なんですよ、ですからせっかく世界から
敵がいなくなったというならこの際お金も
命も無くしてしまえば良いと思います。

そうすると世界も無くなるでしょう、
世界が無くなるなら、お金も命も重要では
無くなります。例えば夢から覚めると夢の中で
出会った人もお金も全て消えて無くなりますが、
だからといってその失った世界を気にする事も無いのと同じです。

重要度が無くなれば何かを成そうとか
得ようというのも無くなります。

結構前の映画ですがマトリックス
「速く動こうとするな、速いと知れ」
いう台詞がありましたが、最初から重要なものが
無いと知れば、得るという事も無くなり、
そして対になっている失うという事も
無くなります。

何かであろうとするな、何かであると知れ、
ということです。
スピリチュアルに多いので不快感を
受け入れてどうたらこうたらというのが
ありますが、そもそも不快とは何ぞやと 
いう話であります。

基本的には内面と外面の不一致が不快感を
生みます。例えば共産主義に傾倒した人物は
自民党の政治家を見かけるとムカつくかも
しれません。つまり共産主義最高や!という
内面と、外面に現れた自民党が一致しない

ものなので不快な感覚になるという事です。

「じゃあ全ては自分であるとかヘチマだとか
内面と外面の一体化を目指せば良いのですね」

となるかもしれませんが、ここが落とし穴で、
不快感をどうにかする為にスピリチュアルでも
宗教でも何かを学ぶというのは一見すると
合理的に見えますが、それはあくまで不快な
ものからの防御を目的としたものであります。

つまり博打に勝つならハートを鍛えろとか
度胸をつけろとか言っているのと同じです。

しかし何故鍛える、あるいは学ぶ必要が
あるのだろうか?
という観点から見ると、
当たり前のように感じますが何かが足りないから
という事になります。

世の中の色々な事から不安を感じるなら
気づきでも悟りでも何でも良いから身につける、
博打ですぐにビビってしまうから度胸を
鍛える、これは確かに合理的で何の間違いも
無いように思われます。
しかし博打ならばどんなに負けても自分の身内が
無尽蔵にお金を出してくれる状態なら
そもそも度胸を鍛える必要もありませんし、
世の中の様々な事が不幸で無くなれば
不幸に耐える必要も無くなります。

何かを学ばなねば、鍛えねばというのは
裏を返せば常に不足の方しか見ていないと
いう事であります。

つまり損失を常に気にしているという事です。
博打で負けるのが不快だったり株を
損切り出来ないのは、損失を取り戻す事が
出来ないかもしれないという
損失への強い意識です。

しかし損失が無ければ得する事も無いのですから
損も得もあると受け入れるのが、
全て在ることの前提となります。

全てが在るとは、あらゆるものは
全て起こる可能性があると同時に全ては
決まっている
ということを知る事であります。

これは矛盾しているように見えますが、
例えば株価でいうとある会社の株価が
朝っぱらには100円でスタートしたのが
5分後に何故か1000円になってまた3分後には
50円まで下がったとか、またはその日の午後には
10000円になってしまっていたとか株価の
上下はあらゆる可能性を秘めていますが、
結局値動きを繰り返す、というのは
決まっていますし、日本の株式市場である
以上は100円で始まった某社の株が昼間に
100ペソに単位が変わっていたという事も 
ありえません。

別の例でいうならゲームでキャラクターを
育ててパラメーターの組み合わせが無限で
あっても、ゲームのキャラがゲーム世界で
設定されている言語以外の言葉を喋りだす事は
ありえないのと同じです。

つまり無限の可能性とは同時に有限の
全てが決まっている世界と両立している
ので
あります。

世の中というか世界は全ての可能性と
全ての決定済み事項が同時に存在している
だけであって、何の敵意も悪意も無く、
ただ全てが在るだけのものです。
敵意も悪意も無いなら、防御する必要も
鍛える必要もありません。

博打なら損失はダメージでも何でも無く、
普段の生活も不幸でも何でもなくなります。
それは全てが在ることの体現でしかありません。

そうなった時にもはや自己とそれ以外を
分け隔てるものは無くなるのであります。
夏の暑さも冬の寒さもあなたが体験
するのではなく、あなたの中に在るのです。
「自由意志が無いという事は、我々は
ゲームのキャラの如く大きな何かに操られて
いるのザマスか、何だかとっても恐ろしい
ザマスわ」
という何故かザマス調で話す
メールを頂きました、ありがとうザマス。

これはあんまり例えが良くないかも
しれないですが、例えばバンザイすると
当たり前ですが肩も手首も一緒に
挙がりますよね。

自分が手首だとすると、挙がりたくないとか
下がりたくねえとか色々考えると思いますが、
一度"肩関節と繋がっている"事がわかれば
挙がるか下がるかは肩関節次第なので、
その時点で手首の自我(?)は消滅します。

手首と肩は同じパーツとして一体と
なったのであります。

で、こうなると"肩関節が手首を操っている"
という表現はあまり適切では無いと何となく
感じると思います。

そもそも手首も肩も腕を構成する一部であって、
どっちがどっちを操っているとか
支配しているとかは感じませんよね。

つまり自由意志うんたらかんたら我々は
操られているザマスわ!というのも
それと同じで、操られているという認識が
少々おかしいザマス。

見方を変えれば肩が挙がるから手首も
挙がるでは無く、手首が挙がるから肩も
挙がっているとも言えます。

つまり個は全体であり全体は個であるわけです。
どちらが操っているわけでもありません。

しかし我々は普段どうしても手首側からしか
見えていませんし、感じていません。
それだと片手落ちになってしまいます。
スピリチュアル系でよく個人ではなく
全体の為に祈りましょうとか、自他共栄を
願いましょうとか言われるのはこの為です。

そして手首も肩も腕という物の構成要素であると
わかった時、全てが腕という概念に統一されて
手首も肩も消えるのであります。

スピリチュアルぽく言えば"自我の消滅"
いう事になるザマス。

カレンダー

05 2026/06 07
S M T W T F S
1 2 3 5 6
8 9 10 11 12 13
14 15 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
知らん
性別:
男性
職業:
食う寝る遊ぶ
趣味:
超合金魂
自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

合体と恐竜は男のロマン

メールはsiranwa22☆yahoo.co.jpに
☆を@に変えてお願いします

バーコード

ブログ内検索

P R

アクセス解析

Copyright ©  -- 知らんモンは知らん --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Material by もずねこ / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]