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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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突然ですがクイズの時間です。
下の図で?に来る図形は何でしょうか。

〇 △ 〇 △ ?



多分、殆どの人が瞬間的に〇じゃないかと思ったはずです。

で、その理由としては「パッと見て法則性があるから」とか「似たようなクイズは
よくあるから」とか「〇と△しか無いから」とか色々とあると思いますが、
「ある法則に基づいて並んでいます」とかは書いていないのに、答えは〇ではなかろうかと
思ってしまうという事は、並んでいる図形に一定の法則を勝手に見出していると
いう事であります。

つまり「クイズです」という言葉と、並んでいる図形という刺激に対しての
反応に過ぎないという事です。

ですから「何故、答えが〇と思ったのですか」という質問に対して、
「法則性が見て取れるから」というのは、
刺激に対しての反応を「こんな感じ」と言っているだけで、
本質的なものを一切示していないという事ですね。

十万石まんじゅうを食って「どんな饅頭でしたか?」に対し「うまい、うますぎる!」とか
言った所で、それは十万石まんじゅうを示してはいないのと同じです。
十万石まんじゅうを食ったという刺激に対しての反応(うまい)を説明しているだけです。
(おまえ埼玉県民だろ!というのはバレる)

しかし、冒頭の〇と△の並びを見た瞬間に、説明は出来ないが”何か”は感じたはずです(多分)
その何かに対しての反応は「このようなものでした」と説明は出来ます、
しかし”何か”そのものは決して説明出来ない。これが思考が止まった瞬間に近いです。

その後の「こんな反応でしたという説明」は思考で行っているわけですが、
それは全部後付けであって、あってもなくてもどうでも良いものですよね。

語弊がある言い方ですが、本来の「答え」は最初から知っているんですよ。
しかし「刺激に対しての反応の説明」、つまり思考が働いている時の方が通常だと
思っている
ので、なかなか本来の”何か”に辿り着けないようになっているのですね。

前述の「”何か”そのものは決して説明出来ない。これが思考が止まった瞬間に近いです。」
思考による後付けですから本質的なものではありません。

「だったら堂々巡りやんけ!」と思うかもしれませんが、これもその通りで
思考を用いようとすると、絶対に堂々巡りになるようになっているんですよ。

カッコつけて言うなら、これは自分のまつげみたいなもので
目の前にあるのに見ようとして目を見開くと、見えないんですね。
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「頑張って瞑想等を行って思考を止める事を試みているけど
上手く行かない。思考を止めるにはどうすれば良いのか」
的なメールを頂きました。

人によってはスパッと行く場合もあるようですけど、
基本的に思考って止まんないものですよ。「止めよう」というのも思考だからですね。
「シロクマを思い浮かべないで下さい」と言われると逆にシロクマが頭に浮かんでしまう、
いわゆるシロクマ効果みたいなものですね。

なので、雨が降ってるのを無理矢理止めようとか思わないのと同じで、
思考が湧いてるのを止めようとか思わない方が良いですね。
雨音を聞いているような感じで、その場に留まった方が結果的に「止まる」でしょう。

そもそも頑張るって殆ど意味無いと思います。
語弊がある言い方ですけど、努力や頑張りってある種の宗教・信仰と同じで、
「これだけ頑張ったから何か良い事あるだろ」的な考えに陥りやすいですよね。
というか、まず間違いなく陥ると思います。

努力や頑張りが報われるには、それが「報われる為の私」が必要です。
ですから頑張って瞑想するというのは、少しずれているのではないかと
感じます。宇宙と一体の境地とかを体感するのに、「報われる私」が居ては
絶対に一体にはなれませんよね。

本当は最初から一体なのに、わざわざ一体では無い状態を創っているとも言えます。
それが「頑張る」事なのであります。

なのでスピリチュアルに関しては、頑張らないのがコツと言えばコツですね。









話が逸れますが、頑張るで思い出したんですけど
最近、何かのアンケートで「専業主婦の仕事は0円」と回答した男性が多いとか何だとかで
話題になったそうですが、これも「これだけ労働を頑張ったから、これぐらいのお金を
貰うものだ」という考えが元になってますよね。

でも世の中には殆ど労働らしい労働をしなくても、毎月家賃収入とか、株の配当で
何百万、何千万とかの収入がある人も居るわけで、労働自体に価値って無いと思うんですよ。

ですからこれ、設問が悪いと思います。
専業主婦の仕事に値段を付けるんじゃなくて、専業主婦の労働に対して
どれぐらい感謝出来るかって意味で、いくら出せますかってした方が
良かったんじゃないでしょうか。

お金ってたくさん言葉を並べるより、はるかにダイレクトに相手に感謝を伝える事の出来る
便利な道具ですし、それ以外にお金の使い道なんて無いと思いますね。

ですから私は「お金は汚いものだ」とかの考えには個人的には賛同しかねます。
四の五の言わずに相手に感謝を伝える事が出来る道具なんて便利だと思うんですけどねえ。

まあ、男性が嫁さんに感謝する時は時給換算でいくらだとか考えないで、
「愛してるよ」の一言で良いんですよ、なんつって。
「無職ですがどうすれば良いか」みたいなメールを頂く時がありますが、
基本的にどんな問題(に感じること)も、その中にある良い面みたいのを
感じた方が良いと思います。

仮に無職で何もやってなくても「働いていない分、自由な時間は馬に喰わせるほどある」とか
感じれば良いわけですね。

と言ってもこういうプラス思考みたいのは序の口・基本みたいなもので、
感じている状況に対し、肯定的にも否定的にも自由に、即座に変えられるっつーのは
見ている世界が夢のようなものだと知るためには効果的なのであります。

夢を見ていて「これは夢や!」と気付いたら、猛獣が襲って来ようが嫁さんが
怒り狂ってようが、その状況を見ながらスルー出来るじゃないですか。
つまり今まで否定的に感じたり見たりしていた状況を、肯定的に感じられるように
なるわけですね。

これは無職でも自由な時間は腐るほどある、と感じるのと実は全く同じなんですね。
やり方とか知らなくても、夢の中で夢と気付いたら誰もがそれを出来るのと同じなんですよ。

スピ系の知識みたいなのって、シンプルであるが故に様々な角度から
ああでもないこうでもないと言えてしまうので、逆にそれが混乱を招く要因ではないかと
思います。
当ブログの筆者も、ああでもないこうでもないと言い続けてようやく気が付きました。

更に一歩踏み込むと、夢の中で「これは夢や!」と気付くのは一体誰なのかって事ですね。

仮に夢の中で自分が豹に襲われ、思いきり首に噛み付かれている状況で
「これは夢や!勝手に喰わせとけば良いんや!」と気付いたとしても、
夢の中の自分が気付いたのではないですよね、
夢の中の自分は既に豹に首を噛み砕かれているわけですから。

という事は夢の中の自分とは別の何者かが「これは夢や!」の瞬間に存在していると
いう事です。しかしそれは、決して説明できないものであります。
夢と気付いた瞬間から、やり方を教わってもいないのに状況を肯定できるのと同じで、
何かは在るのですが、それは見る事も出来ないし説明も出来ないのであります。

というわけで実は起きている時も寝ている時も、常に夢の中に居るのと同じという
話でした。






どうでも良いですが今回のタイトルと内容ですぐにピンと来る方は、
かなりのオッサンオバハンなのは間違いないです。
連休中は新幹線で嫁さんの実家に行ったりしてたんですが、
「新幹線や飛行機が怖くてしょうがない、怖いものに対してどう取り組むのか」という
実にタイムリーなメールを頂きました。

少々話が飛びますが、私とか個人というものは関係性の中でしか
現れないものであります。例えば水が空から降ってきたら雨ですが、山の中で
流れたら滝になるように、存在とは関係性の中でしか出現しない現れては消える波の
ようなものです。

なので何かに怖がっている私、というのも「何か」との関係が無いと
出てこないのですね。

問題は関係性を持ったものを「私である」と認識する事であります。
この記事でも書きましたが、ネカマを演じている時は何も思わないのに、
実名だと何かムカつくのは、実名と関係性を持つ事で「私」が現れるという事ですね。

ですから関係性を排除していって、残るものがあるのかどうかを探る事であります。

瞑想するのも良いかもしれませんが、何を持って「瞑想している私」としているのか。
目をつぶって視界が真っ暗だから瞑想していると感じているのか、リラックスしているから
なのか、あるいは座禅を組んでいるからなのか、様々な関係性の中で「瞑想している私」が
出現しているのです。

何かをしている「私」は存在しない、というのは関係性の中でしか「私」を認識出来ない
からです。ネカマキャラでは恐怖を感じたりしないのは、最初から関係性が無いからです。
「私」じゃないからですね。

なので「怖いものにどう対応するのか」は、関係性を放棄すればおのずと恐怖は
無くなります。関係性が無いとは「私」が無ければ「彼」も無い境地であります。
「怯える私」も居なければ、「恐怖を与える彼」も居なくなり、一つになるのです。











偉そうに書いていますが、恐妻家の私が言ってもあんまり説得力無いですね。
前回の麻雀バカ学生に続いて、「ネカマが趣味」という
またもやファンキーな読者の方からメールを頂きました、ありがとうございます。

この方はネカマをやる事で、ある覚醒を得たそうであります。
以下は引用です。

「私はネカマの人格を使い分けてきましたが、ある日チャットで私に対し
ブスだの馬鹿だの罵倒してきた奴が居ました。しかし、ネカマはキャラなので、
特に腹も立ちません。ここで私はハッと気付きました。
普段、私が私であると思っているのも単なるキャラの一つではないか、
ネカマを罵倒されても何とも思わないのに、仮に私が実名で罵倒されていたら
ムカつくのはおかしいと思ったのです。」


「私とは存在しない、何かに同一化した時だけ、私として存在するという事が
腑に落ちました。そうすると、今まで問題だと思っていた事が、問題では
無くなりました。それらの問題は、私が私(の実名)を私であると同一化しているからこそ、
問題だったのです。」


「私はそれ以降、何者でも無くなりました。ゲームのキャラから抜け出たのだと思います。
これからも明るいネカマライフを送ろうと思います。」






結局ネカマかよ という話なんですが、
この方の体験談は非常に示唆に富んでいると思います。

ある対象に同一化しない限り、何が来ようが問題を問題として認識しないという
部分などは、重要なポイントですよね。

即座に問題は解決出来るのではなく、即座に問題では無くなるのであります。
解決出来る、と問題では無くなる、は同じようで違います。

解決するだと、結局問題は存在する事になりますが、
問題では無いだと、もはやそれは何処にもありません。

多くの人は解決しようとしてしまう傾向がありますが、
解決するのではなく消滅してしまうのであります。

それは、私だと思っているものとの同一化の解消から始まるのであります。

ネット上だけに存在する女性の人格と、現実の我々の人格に
何の変わりもありません。違うのは前者は実在しない、と思っていて
後者は実在する、と思っているだけの違いです。

結局、思っているかそうでないかだけなんですよ。
これは夢を見ている時に、その世界は実在すると思っていれば現実、
思っていなければ夢、というのと同じです。








果たして実在とは何なのか、ネカマから哲学的な話になってきましたが、
とりあえず私はこの方のメールを読んで、オンラインゲームでフレンドになっている
女子大生がオッサンだったらどうしようという不安で落ち着かなくなってしまいました。

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