前回の記事で人生とは()の連続であり、それを()と
何も無い ←空白を同時に認識出来ないからこそ人生が
在るように見える、みたいな事を書きましたが(冒頭から
何を言ってるかわかんねーコイツ、という人は前回の
記事を参照してね)
「では私の人生とは取るに足らない
ものだったような気になってしまって、かえって落ち込ん
だ」的なメールを頂きました、ありがとうございます。
取るに足らない、とは確かにそうかもしれませんが
例えばオンラインゲームの中のキャラクターの生活が
「本日でサービス終了となります、長い間ありがとう
ございました」となっても、あのゲーム面白かったなとか
あのイベント楽しかったなとかは残るわけで、
そこには様々な感情や当時思った事などがあるわけです。
で、それら人生を一つの大きな流れというかゲームの
シナリオとして捉えるようになると、やはりあらゆるもの
は全て繋がっていたのかな、という感じである程度の
予測というか、大袈裟に言うと
シナリオで与えられた
立ち位置、そしてまたこれからの立ち位置、みたいな
ものが何となく感じ取れるようになります。
イメージとしてはお湯に手突っ込んで「これは何処まで
深いんや」と思っているだけだとわかりませんが、
お湯は何かに入っているかもしれないからもしかして
これは家の風呂かもしれない、と閃くと何となく風呂釜の
大きさからどれぐらい深いとか予測が付きますよね、
それに近いです。
つまり ←空白だけで何だかよくわからんのが
( )と同時に認識した事により
これもしかしたら
俺んちの風呂やんけ!となる感じ
ですね。ルビンの壺見てたらこれ人の顔面にも見える
やんけ!となるのと同じです。
話を風呂に戻すとこれは家の風呂や!と感じた時点で
何だかよくわからんお湯に漠然と手を突っ込んでいる事
から解放されるわけです、つまり人生は
取るに足らない
ものだと見抜いた時点で人生は終わったのです。
それは何処までも深いお湯ではなく、家の風呂釜だったの
であります。
家の風呂釜の深さは何となく推測出来るので、
後は人生(だったもの)から解放された傍観者として
流れて行くようになるのであります。
普通に人生を進み、人生に踊らされ、そしてまた普通に
人生を流れるのです。
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