意志決定というものは自分が行ってそうですが、実の所は何もしておらず、
全て確定されております。
簡単に言えば車に乗っていて右と左に道が分かれていたら、これはもう
どっちかにハンドルを切るしかないわけで、ハンドルを切ることは確定されて
いるのであります。
ある意味、「分かれ道という世界」において抱く「願望」はどちらかにハンドルを
切るっつー事で、既に達成されているのですよ。
願望だ何だとか気にもしないでしょうけど。
ところが願望という属性(?)がくっつくと何やらそれを達成するための
無限の道があるように感じ、結果としてあるはずもない自由意志を用いて
どうにかしようとしてしまうのですね。
人間の世界というか自我のゲームのルール、つまり道路における分かれ道は
複雑そうに見えて単純で、早い話が死にたくない、認められたい、
そして身の回りをコントロールしたいってのが殆どですよね。
その逆も然りです、例えば死にたい死にたい言ってる人に限って、
なかなかくたばらない死ぬ死ぬ詐欺なのは、死にたくなる出来事ばかり
見たいからであります。死にたい気持ちをキープするのが大事で、
実際に死ぬ死なないはどうでも良いのです。
で、これらの欲求を持つのは自我のゲームにおいて当たり前なのです。
道が分かれていたらどっちかに行きたい、行こうと思うのと同じです。
問題はこれらの欲求が己自身と思い込む事です。
あなたはゲームではあるが、ゲームのルールではありません。
ババ抜きではあるがババでは無いのです。
ルールはゲームを楽しむために必ず欠乏を生みます、
欠乏を解消したいならルールに悩むのではなく、ゲームになれば良いのです。
その為にはルールに支配されない事です。
欲求が出てきたら、その欲求の大元を見ればルールから解放されます。
将棋のルールを細かく変えたら変えたで、新たな将棋を楽しむために
新たな悩みが出てきます。
しかし、将棋そのものを成立させている将棋盤は、何事も無かったように
そこに存在しているのです。
御清聴、ありがとうございました。