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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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私は幸いにして三十過ぎても肩こり知らずですが、
世間には肩が凝っただの腰が痛いだの多いようであります。

しかし、肩や腰がいきなり凝ったりするわけはありません。
肩こりは、文字通り自分の肩が凝る、つまり肩を緊張させているのは自分であります。

「でも肩こりも幻なんじゃないの?」と思われるかもしれませんが、
確かにそうですがそれを言い出すとややこしくなるので、とりあえず今回は「肩こりとは
自分自身が肩を緊張させているのである」という事で話を進めます。

肩こりに限らず、あらゆる現象(健康や疾病も含めて)は自分自身が創っています。

これは重い病気の人には少々きっつい言い方になってしまうかもしれませんが、
例えば「猛烈に胃が痛い」のも、胃が独立して痛みを発しているのではなく、
やっぱり自分自身が胃をキリキリとさせているから痛いのであります。

もちろん、手荒れ、ニキビ、おできといった皮膚の疾患も
やはり自分自身の皮膚の細胞がそれらを創っているわけですから、
やっぱり自分が創っているのであります。

じゃあ何で痛いの?とか何でニキビ面なの?となりますが
簡単に言えば全て「自我を守るため」であります。

本当は余裕で足がつく深さのプールなのに、それを知らずにいきなり
ドボンと叩き落とされたら焦って溺れるのと同じです。
この時恐らく手足の筋肉はものすげえ緊張し、心臓はドキドキして
パニックを起こしていると思われます。

「守るものなど存在しない」のに「自我にとっては」守るものが多すぎるので、
それらが疾病という形で出てくるのであります。

様々なメソッドを渡り歩くのも結局は「守るため」であります。
何だかわからないけど自我にとって守りたいものが多いので、
必死に緊張させ、ある時はリラックスさせ、溺れるはずの無いプールで
一人相撲をやっているのです。

ちょっとしたニキビでもちらっと見ただけで「こんな顔じゃモテないわ」とか
「お嫁に行けないわ」とかの感情が湧き、そして「私は一生独身なんでしょうか、
助けてください」とか言い出して、「これこれこうやって祈ると良いですよ」みたいに
言われて「ありがとうございます、助かりました」とかの繰り返しになるわけです。

これは自我を守るための典型的な一人相撲であります。
こんな事しょっちゅうやってりゃそりゃ疲れます。

あまりに疲れすぎると、神を見たとか高次元存在が玄関から入ってきたとか
ハムと会話したとか言い出す人も居るんですが、まあそれは良いとして、
ニキビを創ったのも自分で、様々な感情が湧いてきたのも自分で、
それに色々反応しているのも自分であります。

全ては「自我を守る」 この一点に全てを集中しているのです。
これは終わりなき戦いであります。

じゃあどうするのか?

よく考えれば当たり前ですが、それらと戦わない事です。

溺れないプールで溺れると思ってプールと格闘するから腕や足の筋肉が
凝ったり痛くなったりするのですから、だったら戦わなきゃ良いのです。

溺れたくない、あるいは溺れてしまう、と勘違いしているから腕が痛むわけです。
ならば腕の痛みを取るには「痛みを消そう」と戦うのではなく、
その「勘違い」を認めれば良いのです。

わざわざ自我を守るために疾病とか痛みという形を創っているのですから、
守るために戦ってくれているそれらの創造物を邪険にすれば、
さらに戦いは激化してしまうのであります。

もちろん薬を飲むなとかいう意味ではありません、飲んだほうが楽になるなら
どんどん飲んでください。ただその時に湧いてくる感情や痛みを排除しようと
してはいけない、という事です。

「もう戦いは終わった、戦いが続いていると勘違いするな!」と呼びかければ
自我を守るために戦っていた連中は、恥ずかしながら帰って来てくれます。
自我を守る必要が無くなったという事は、真実の自分に帰れるという事です。



ところで今回のタイトルの意味がさっぱりわからん、と言う人は
多分若い人でしょうから、勉強のために「横井庄一」で検索しましょう。
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「何か失敗とかすると自分を慰めて、ありのままの自分を愛するように
してきました。でも最近失敗する度に慰めるのも疲れた、どうしよう」

みたいなメールを頂きました。

私はこのメールを拝見してどんだけ失敗ばっかしてんだと思ったこれは
「愛の無限ループ」に陥っているのではなかろうかと感じました。

「愛する」っつーフレーズはスピ系でもお馴染みで、とても感動的な響きの言葉だと
思います。が、あんまり愛してる愛してるを連発してると、相手が恋人でも次第に
うざったくなるのと同じで、いつの間にかゲームの中でグルグル回る羽目になります。

この記事と少し関連がありますが、ババ抜きで負けた自分を「負けても良いの、
参加することに意義がある、愛してる」とか慰めてると、これはババ抜きをこれからも
繰り返すと宣言しているようなものです。

一見すると「ありのままの自分」を愛しているように見えますが、
本来はババ抜きが存在しないので、「愛しているつもりのありのままの自分」も
また幻なのです。幻に対して愛してるを連発するのは、別に悪くは無いと
思いますが、根本的な部分は解決されずに残ってしまいます。

愛してるを連発するなら、ババ抜きは存在しない事を認識し、
ババ抜きを創り出した自分に愛してるを連発すべきであります。
それこそが未来や過去に飛ぶのではなく、今この瞬間だけに存在する力
生み出すのです。

愛とは個人を慰めるものではなく、全体を包み込むものです。




というわけで個人に愛を注がず全体を愛で包む私としては、
道行く綺麗な女性に目移りしまくりも許されるのであります(?)

これは浮気ではなく、愛のなせる技だ!と言いたい所ですが、
あまりこういう事ばっかり書いていると女性読者からボッコボコに叩かれるので
黙っておきます。
スピ系の書籍とかだとネガティブな感情は良くないからどうのこうのという
内容が多いですけど、無理矢理ネガティブを押し込めるのも体に悪いっつーか、
結構大変だと思います。

頂くメールの内容で相変わらず多いのが「怒りや悲しみを抑えようとして苦しいです」
みたいものですが、これは前述したように「ネガティブは悪だ」的なものが
原因であると思われます。

個人的には、怒ったり何だといった感情は押し込める事は無いと思います。
怒りに限らずあらゆる感情はあなたが存在しているから出て来れるわけで、
出てくるものは勝手に出せば良いのであります。

ウンコだってあなたが在るから出て来れるわけで、
ウンコを我慢してると体に悪いのと同じです。

まあ私も若い頃はしょっちゅう怒ってて、今となっては非常に恥ずかしい黒歴史ですが
十代の頃なんかは繁華街でストリートファイトとかよくやってました(ろくでなしブルース
とか流行ったしね)

大体私みたいなボンボン育ちの人間てのは、穏やかな優しい性格になるか、
ワガママなチンピラ紛いのクズになるかのどっちかなんですけど、
若い頃の私は見事に後者になってしまったわけですね。

今では全く穏やかなオッサンになりましたが、もちろん怒ったりムカついたりなんてのは
当たり前のようにあります。
が、そういった感情も「私」が存在するから存在出来るわけで、大袈裟に言えば
宇宙や世界との一体感を認識する要素の一つに過ぎません。

なので変に感情に対し、これはポジティブとか、これはネガティブとか仕分けしないで
あるがままに一体となっていれば良いと思います。
私のいとこの一人に、いわゆるパワースポットが好きなのが居るんですが、
パワースポットの「パワー」って何なんでしょうか。
いとこが言うには大地の気とか力とか、何だかドラゴンボールみたいなもの
らしいですけど。

こんなブログ書いてる割に私はそういった類のモノは疎いのですが、
まあ「パワースポット」もあなたが創ったもので、大地の気だ何だも全てあなたです、
って言っておけば何だかそれなりになってしまうので実に便利であります。
「○○はワシが育てた」みたいのと一緒ですね。

パワースポットも風水も「ここからパワーが出ている」とか「この方角は縁起が良い」
とか決めるのも、恐らく何らかの概念なりメソッドが存在すると思うのですが、
今の時代はトイレにも神さまがいる時代なので、別に既成概念にとらわれずに、
オリジナルパワスポとかオリジナル風水とか編み出しても良いのではと個人的には
思います。

例えば風水的に良くないとされる方角でも、方角なんて単なる概念なんで
自分で勝手にオリジナルの方角を決めて対抗するってわけには行かないんでしょうか。

私は今日から東西南北を廃止し、風水が通用しない男を目指します、なんつって。
前回、ちょっとだけダークナイト(バットマン)の話題を書きましたが、
バットマン最大の宿敵と言えばジョーカー、ジョーカーと言えばババ抜きであります。

実は、ババ抜きというゲームは存在しないのです。
存在しないと言うと語弊がありますが、トランプをいくら眺めても
ババ抜きというゲームが「そこにある」と言う事は出来ません。
同じように麻雀牌をいくら眺めても、麻雀というゲームを示す事は出来ません。

ババ抜きとはババ抜きをプレイする者がルールを理解し、ルールに従って
プレイする事で、初めて観念としての「ババ抜き」は存在するのであり、
「ババ抜き」というゲームが目に見える形で出現する事はありません。

で、話が一気に飛びますが、ババ抜きと同じく幸福とか不幸も存在しません。
それはゲームをプレイする者の観念としてだけ存在し、形があるものではありません。

ゲームをプレイしていると、どんなに幸福になっても不幸は付きまといます。
幸福とは、不幸が無ければ幸福を感じられないからです。
同じように不幸も、幸福が無ければ感じられません。

なのでいつでも幸福、というより幸福とか不幸とかを超越するには、
前から書いていますが、ゲームを止めれば良いのであります。
つまり「ババ抜き」は存在しない、という事を喝破すれば良いのです。

「ババ抜き」とはゲームをプレイする者の観念にしか存在できない、
それは自由意志が存在しないという事にも繋がります。
「ババ抜き」という存在しないゲームを存在するように感じ、
自分の意志でプレイしているかのように感じていただけだったのです。

ここまで来ると、もはや「願望」という言葉は意味を成しません。
何故なら「願望」とは存在しないゲーム「ババ抜き」で勝つために(幸せになるために)
必要だと思い込んでいた幻想だからです。
別にゲームに勝つために願望は必要無かったのです、ゲーム自体無かったし。

ゲームが存在しないと気付いた時から、願望は単なる意図になります。
つまりぶっちゃけて言えばどうでも良いものです。
何故なら勝つために必死だった「ババ抜き」は何処にも存在しなかったからです。

単なる意図なのだから、もう気にする事はありません。
ゲームは存在しないのだから、本当の意味で幸福と不幸が統合した一つ、
最初っから真の幸せなのであります。

神にお願いする事も、自己暗示も、洗剤意識で洗剤を買おうとかする事も、
インナーチャイルド(?)みたいのを癒す事も、必要ありません。

というよりそんなものは存在しません、全てババ抜きという
幻のゲームに勝つために作り出した分離だからです。

もはやババ抜きは観念の中でプレイされるものでなく、
ババ抜きがあなたであります。

様々な感情、思考は幻のゲームで勝つために必死になっていないでしょうか、
ゲームは存在しない事に気付けば、実は全てがあなたであり、もはや思考や感情を
眺めている者すら居なくなります。

眺めるという行為は分離であります、分離しているから眺められるのです。
何故、眺めるのか?
まだ眺める事でひょっとしたらゲームに勝てるのではないか、という
存在しないゲームに踊らされているのです。

勝ちも無ければ負けも無く、幸福も無ければ不幸も無い、そして「ババ抜き」は
存在しない。しかし存在しない「ババ抜き」を行うための「トランプのカード」は存在する。

トランプは全てのカードゲームを包括していますが、トランプ自体には幸も不幸も無く、
全てが統合されています、それが本当のあなたであります。

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男性
職業:
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趣味:
超合金魂
自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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メールはsiranwa22☆yahoo.co.jpに
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