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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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前も書いたかもしれませんが、自由意志というものは存在しません。
「自分の意志で色々やっている」と思っているものは、結局は周りの
状況や刺激やその他色々の要素に操られているだけであります。

例をあげると、あなたが車で高速道路を走っているとします。
この時何故、あなたはハンドルを握り運転しているのでしょうか。
「そりゃ高速走ってるからに決まってるだろ」という答えが返ってくると思います。

その通りです、「高速道路」「車の運転席にいる」という状況があるから
あなたはハンドルを握って運転しているわけです。つまり状況に操られて動いているだけ
なのです。

自由意志があるならいきなり運転席で逆立ちを試みるとか、ハンドルを放して漫画を読むとか、
窓からバナナを放り投げて後続車をスリップさせるとかやっても良いはずです。
何故やらないのでしょうか、それは前述した「高速道路で運転席にいる」という状況に
合わせた行動をとっている、というよりとらされているからです。
自由意志はどこにもありません。

ここまで読んだ読者Aが、ある日高速道路で運転をしている時にいきなりズボンを下ろして
下半身を露出させたとします。「どうだ、俺はこんなに突拍子も無いことをやったぞ。
これぞ自由意志だ」となるでしょうか?

これは自由意志とはなりません。ただのキチガイです
何故なら読者Aが下半身を露出させたのは、「このブログを読んだ」という
刺激によって起こった行為
だからです。先ほどの「状況」に操られているのと
何ら変わりはありません。

自由意志は無い、という事は結局の所「何かをやっている」者など何処にもいない、という事です。
願望実現とか必死こいてやっている人は、いなかったのです。
最初からあるのは「無」だけであったのであります。

これを宗教家なら「神の意志」と言うでしょうし、
スピリチュアルマスターとか言われてるオッサンなら「大いなる意識」とか言うかもですし、
このブログなら大半の読者が予想した通り「すき家の意志」であります。

呼び名はどうでも良いのですが、それらと一体になる事、というか最初からそうだった事に
気付く事で、不足も何も無い完璧が垣間見えるのです。
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ここ数日は「私」は実は存在しないのだ、という話を続けてきました。
正直言って、書いている私も途中で何書いてたんだっけと思うぐらい
文章にし辛い内容でした。
今回はもう少しシンプルを目指して書いてみます。

「私」が存在しない、という事は今まで「私」が感じてきた時間等の
概念も「無かった」事でもあります。

時間が無いという事は、始まってもいないし終わってもいないという事で
あります。つまり全てがもう「完成」してしまっているわけです。

という事を書くと「そ、そんな・・・じゃあ私はこれからもずっと貧乏なまま
なんですか、なにをやっても変えられないんですか」
と思う人もいるかもしれません。

それに対する答えはもちろんイエスであります。ただ、ここで私の方から
問いたい事があります。「あんた誰?」と。

「なにをやってもダメなのか」と勝手に絶望しているのは一体誰なのか、という事です。
誰がそう思っているのですか、という事です。

存在しないはずなのに何で「なにをやってもダメなのか」と思うのでしょうか、
存在しないはずなのに何故か存在を主張しているのは何か?そしてそれは
本当に存在しているのかという事です。

言い方を変えると、例えば扇風機から直接風は出ていません。
羽が回り、空気をかき回すから風が発生するわけです。
空気が無ければ風は発生しないし、もっと言えば電源が抜けてれば扇風機自体動きません。

にも関わらず扇風機が「私は風を出しています」と主張するのはおかしいではないですか。
それは扇風機の勘違い以外の何者でもありません。
つまり「風を出している」者は存在しないのです、それでも「私は風を出しています」と
主張する人は、まさに「あんた誰?」であります。

結局、「本当の私」の全ては「一体誰がそれを考えたり感じたりしているのか」という所に
行き着くのです。

「私は成功法則を発見した!」とか「アタシ、悟ったわ!」とか言ってる人でも同じ事です。
誰が「発見した」のでしょうか、誰が「悟った」のでしょうか。

色々思考が湧いてきたら問う事です、「あんた誰?」と。
度々書いている「願望ではなく意図」という言葉は非常に理解しがたいかもしれません。
意図する事は何か難しい感じがしますが、実際そうでもありません。
何故なら今、見えている世界が全部意図したものであります。
まず、その事を認識する事です。

「こんな世界は気に入らない」と感じる人もいるかもしれません、
そして「変えたい」と思うかもしれません。
しかし、外側の世界は変える事は不可能です。内面、内側を変える事で
あなたを通じて世界が変わるのです。

前回書いたように「私」は本来存在しません、しかしその存在しない「私」を媒体として
フィルターのごとく世界に変化をもたらします。

なにかしら願望を抱いたら、その願望に伴う感情やイメージが色々と浮かんでくると思います、
何故浮かぶのか?それはあなたが創っているからです。あなたが創っているから、
あなたという媒体を通して世界に現れるのです。

車が欲しいなら「車」のイメージが出てくるのは、あなたが創ったからです。
創れるという事は、既に持っているという事です。そして車をどうやって買うかとか何だとかの
「内なる声」は全部雑音です。あなたを通して創造したという事実が
あるだけです。

「可愛い彼女が欲しい」と思って朝青龍の顔が浮かぶ事はまず無いのと
同じ理屈であります。(よくわからん)

世界が変わるのではなく、変化の媒体、変化の最先端は、常にあなたです。
外側の世界をこねくりまわそうとするのは、無駄です。
何故ならこねくりまわそうとしているのはどこにも存在しない「本当の私」ではなく、
ここに居ると勘違いしている「偽りの私」だからです。

「偽りの私」は文字通り偽りなので存在しません、そして「本当の私」もどこにも存在しません。
しかし同時に今、この瞬間に在るものが「本当の私」でもあります。

この文章で書くとパラドックスくさくなってしまう事に気付けば、「意図」という言葉すら
不適切な事がわかるでしょう。言葉で書くと「意図」なのですが、結局全部創っているのは
自分なので、何処にも不足が無いし意図もクソも無いのです。
全てが在る事、全てを創造し、自分が世界そのものだったという気付きであります。

今回の話は恐らく頭で理解するのは不可能に近いかもしれません、
生まれつき盲目の人に「赤い」とはどのようなものなのか説明するのが困難なのに似ています。
しかし「私」が存在しないという事に気付けば、体感する事は可能です。
度々このブログで「何もしない」事についてああだこうだと書いていましたが、
「何もしない」は言い方を変えると「何も出来ない」事に気付くという事でもあります。

以前も(いつも)似たような事を書いたのですが、私達が考えている事、つまり思考は
後付け設定のようなもので、過去や未来の事を色々と思い悩んで勝手に
ああだこうだと騒いでいるだけです。

いい加減引っ張り過ぎの感があるすき家ネタですが、やはり前回書いたのと
同じように「世界の支配者はすき家なんだよ!」と思ったら、それを基準にああだこうだと
思い悩むわけです。じゃあその「世界の支配者はすき家」は誰が思っているのか という事です。
「基準」を作り、それについてああだこうだと考えている人は誰なのでしょうか。

「もちろん、私ですよ」と思った人は、残念ながら不正解です。
実際は「基準」を作ったきっかけは、周りの環境や周りの人たちの言動を見たり聞いたりした事を
勝手に解釈しただけです。

誰が解釈したのか?それは世界から分離してしまった際に生まれたエゴであります。
エゴは、勝手に生まれただけで毒にも薬にもなりません。
しかしながらいつの間にかエゴがあなたと一体化し、あなたはエゴがイコール自分であると
勘違いするようになってしまいました。

その結果として、単なる雑音でしかない思考を「自分の内なる声」だと完全に誤解するように
なってしまったのです。

思考が単なる雑音であり、「後付け設定」であることに気付くと、
「では、私はどこに存在するのだろうか」という事になると思います。

今まで「内なる声」に耳を澄ませてある時は希望を、ある時は絶望を経験し、ある時は
その声に従い体を動かしたり、牛丼を食ったりしたりしていたかもしれません。
「後付け設定」を信じれば信じるほど、「俺はこれこれこのように考え、このように行動したのだ」
というエゴが強化され、いつの間にかそれは絶対のものとなってしまいます。

それらが全部「単なる雑音」「後付け設定」だと気付いたら、エゴ視点からの「私」は消滅します。
「私」は何も考えていなかったし、何処にも居なかったんです。

「何もしない」は「何もしない」ようにしよう!ではなく、最初から「何もしていない」のです。
前も同じような事を書いたんですけど、
このブログを読んで頂いている読者の方が求めているものって「方法論」だと
思うんですよね。こうすればこうなるよっていう公式というか法則みたいな
ものを期待している方が多いと思うんですけど、ブログを見る度にくだらないギャグしか書いてなくて、
それでも何か意味が隠されているんだとか思って読んでいる方がいるかもしれないと思うと、
何か申し訳ないなーって感じですよね。

どう考えても昨日のタイトルの「伊藤ハム」なんかに意味が隠されてるわけないじゃないですか。

なんでこんな事書いたかというと、読者の方から頂くメールの内容の九割は「面白いです」とか
「僕はすき家でバイトしています」とかなんですが、たまにかなり深刻な悩み
書いてくる方もいて、そういう方もいると思うと、もう少し真面目に書くのが良いのかなとか
思うんですが、結局の所外側に救いを求めても救いは無いという事を強調したいですね。

外側になにかリアクションを求めても、望んだ結果が出たり出なかったりでしょう。
外側が良くなれば自分が良くなると思っている以上、世界と自分はずっと分離したままです。
「ムームー星人」の記事でもちょっと書きましたが、本来の自分は全ての始まりであり
創造主であるわけです、それが色々あって「外側の世界と自分」というように分離を作り、
外側の世界を「自分の能力で」どうにかしようと躍起になっているわけです。

そもそも「何々を叶える」って言い方も誤解を生む要因の一つなんですけど、
私自身は「これこれこういうのを叶えよう」とは思いません。振り返ってみると、結果として
叶っていたね という事ばかりです。(4月22日付の記事「ハエを切る」参照)
それを説明しようとすると、どうしても「こういう事が起きて叶えました」「全部叶ったんです」と
なってしまうわけです。

大体何かの願いが叶うにしたって、振り返ってみれば殆ど偶然というか、巡り合わせですよね。
スポーツとか芸術の世界でそれなりの成功をした人でも、その分野に興味をもったきっかけが
たまたまテレビで観たとか、近所のオッサンが偶然その道の指導者だったとか、
「自分の能力で成功した」と思っているものは実は殆ど皆無だったりします。
テレビをつけなかったら、その分野に興味を持たなかったかもしれませんし、
近所のオヤジが焼き鳥屋だったら、焼き鳥屋になってたかもしれません。

成功なり願望実現なりは「自分の能力」なんだ、と思い込むからいつまでたっても
分離してしまうのです。語弊がある言い方ですが、文字通り「能」であると
認識した時に、創造主としての認識が見えてくるのです。

個人的な昔話になりますが、十年以上前に亡くなった私の祖父は、地元ではそれなりに名が知れた
資産家でした。戦争から復員後、焼け野原になった日本でたった一人で商売を始め、
晩年は土地や不動産を多く所有していたのですが、
私が中学生ぐらいの頃に「爺ちゃんはどうやって金持ちになれたんだ?」みたいな事を
聞いた時に「俺は何もやってないよ」と答えた祖父。
「でもなんか秘訣があったんでしょ」とさらに食い下がると「ぶっちゃけ運」という
実にツマンネー答えが返ってきました。

あの時は「それじゃ面白くねーよ」とか思ったものですが、今にして思うと
祖父が私に言った「ぶっちゃけ運」にはシンプルにしてディープな
意味があると(少なくとも伊藤ハムよりはずっと)痛感している
次第であります。

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自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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