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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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度々書いている「思考を止めてどうたらこうたら」ですが、
止めようとすると意外と止まらないものです。
自分で書いた内容を読み返してみると「止めましょう」しか書いてなくて
肝心のやり方を丸投げしていました。
あまりメソッドとして強調するのはエゴが騒ぎ出すので(ぜひ身につけねば!とか)
書くのはどうかなあと思ったのですが、とりあえず書いてみます。

まずコツとしては普段から我々は結構思考を止めている事を知る事です。
例えばトイレに行こうと思い、用を足してトイレから出てきたとします。

これを事細かく説明するのは意外と困難です。便座に座りました、ウ〇コしました、
ウォシュレットの水圧を最大にして発射しました。流しました、トイレから出ました。
ああ、スッキリさわやか。

とこれぐらいまでは説明できると思いますが、
では便座にどのような角度で座ったのかとか、ウ〇コはいかなる形だったのかとか
ウォシュレットは何秒間発射していたのかとか、それ以前に手洗ってないだろとか
そういった部分までは恐らくわからないと思います、
つまりその辺は思考が止まり、「今」にしか居ないのです。

何の事は無い、これだけです。
普段から誰もがやっているというか、誰もがわかる感覚だったのであります。
つまりスキルでもメソッドでも何でもない、あまりに当たり前過ぎる感覚というか、意識です。

つまんねー と思われた人もいるでしょうが、本当に何の訓練もいらないのです、
それに気付くかどうかだけであって、別に瞑想もいらないし、愛を送ります!とかしなくても良いのです。
我々は最初から「今」に居たのです。

実に簡単なので、ヒマな人はゴロゴロしながらでもやってみましょう。
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少し昨日の続きっぽいですが「願望」ではなく「意図」にする事に気付いていくと、
「やったー願望達成!」とかの感情が薄くなっていきます。
昨日の例でいうと「手を挙げよう」と「意図」して、手を挙げたら
「やったー手を挙げたぜ!キャッホー」なんて言ってたら完全にアブナイ人です。

あまり例えが良くないかもしれないですが、「願望」を追い回している時は
部屋の中でブンブン飛んでるハエを刀でぶった切ろうと刀を必死に振り回している状態です。

「意図」は部屋の真ん中あたりに刀を立てたまま置いといて、そこをハエが
ブーンと飛んでって、勝手に刃に当たってスパッと真っ二つになる感じです。

一週間後ぐらいに部屋に入ったら真っ二つになったハエが落ちてて「ああ、そういえば
ハエを切り落とそうとしてたっけ」と思い出すような感じです、そこにあまり感動はありません。

「ハエを切ろうとしていた」という事すら忘れている場合もあります。
そして私は今日書こうと思ってた事を晩飯食ってゴロゴロしてたらすっかり忘れました。

今回の話は私の個人的な感覚なんで、あまりマジになって「なるほど、そうか!」とか
思わないでくださいね。
基本的に思考は願望の実現には殆ど必要無いものです。

思考は「~をしよう」とか「~する」という概念を生み出し、エゴが
それに乗っかってややこしい事になるのがお決まりのパターンです。

少々ややこしい話になりますが、あなたが何か動作を起こしている時に
どんな動作をしているかを判断するのは全て過去に対してです、
手を挙げようが足を踏み込もうが全て「手を挙げてから」あるいは
「手を挙げている途中」に思考で「今、手を挙げている(挙げた」と
判断しています。つまり「手を挙げる」という動作と、その動作を思考で
認識するまでにタイムラグが生じるのです。


これをそのまんま願望の実現に当てはめると、「何かを得たい」という意図と
「何かを得ようと今、思っている」という「思考」にも同じようなタイムラグが
生じています。
先の手を挙げる挙げないの例で言えば、「手を挙げよう」という
「意図」と「今、手を挙げている(挙げた)」という「思考」は同時に発生しないと
いう事に改めて注目してください。


「願望はそれを思った瞬間に叶っている」とはスピ系の成功本なんかでよく見る表現ですが、
正確に言うとそれが「意図」である場合は「願望」という属性すら持ちません。
せっかく「意図」すれば良いだけなのに、思考と、それに乗っかったエゴの仕業で
「意図」が「願望」という「色々やらないと叶わないもの」(と、エゴが認識している)に
クラスチェンジしてしまっているのです。


もう一度「手を挙げる挙げない」の話に戻りますが、この「手を挙げる」という動作も
思考によって確認作業をするから初めて「手を挙げている(いた)んだ」と認識できるわけで、
思考が入ってこなければそこにはもう純粋な意図しかありません。
何をしたか、なんて認識していないので気が付いたら意図を果たしている状態であり、
文字通りワープであります。

つまり「今、何してたんですか?」と言われても「知らんモンは知らん」となるわけです。

「どうやって願望を達成したんですか?」「どういうメソッドをしたんですか?」
それらの質問に対し「思考」を用いて「多分このようにやったのだと思います」と
説明するのは可能です、しかしながらそれは「多分こうやって手を挙げたんだと
思うんだけど・・・」と言っているのと同じ事です。つまり説明している当人は
その時「意図」していただけで「叶えよう」としていないのです。


「叶えよう」とするのは「願望」です、そして「願望」は叶ってしまうと
消滅してしまうので、絶対に叶いません。
メソッドを追い掛け回しても意味が無い理由はここにあります。
結局、全ては自分の中に眠っているんです。

実際の所、自分がどういう角度でどんなスピードで、いかなる入射角で手を挙げたなんて
わかるわけないですよね(わかるって人がいたらゴメン)でも聞かれた以上は
思考を使って「多分こうやって・・・」と答えざるを得ないわけです。

でも、それって思考での後付けなんで答えてるようで答えになってないんですよ。
夜寝てる間に別の部屋に移動してたら、起きてから「そういえば車に乗ってたような・・・」とか
後付けで色々と理由を探すのに近いです。まあ実際寝てる間に別の部屋に移動してたら
願望実現とか以前に拉致された可能性が高いと思いますけど。

今日は少しどころかかなりややこしい話でしたが、いきなり思考を止めて
どうのこうのはちょっと難しいかもと思ったので書いてみました。
まずはエゴや思考の仕組みに気付き、いかに自分が「今」から外れているかを認識すれば
思考を超えた「何も知らん」状態を垣間見れるかもしれません。
思いのほか読者の皆さんからメールを頂いてとても感謝しています。
いつも同じような事しか書いてないブログでも、読んで頂ける方が
いると思うと、知らんモンは知らんで済ませるのが果たして良いのだろうかと
悩む次第です。

今回も、まあ同じような話なんですけど、昨日の記事の補足的な意味合いで
書いてみようかと思います。

昨日の記事で、夢や希望はエゴのおやつみたいなものだと書きました。
このおやつに釣られると「夢と希望を持って願望実現に頑張る」みたいな
エゴが用意したポジティブストーリーに入り込んでしまいます。

そのポジティブストーリーの結果は、叶ったり叶わなかったりだと思われます、
エゴはさらにおやつをチラつかせて、あなたにポジティブストーリーを続けるように促すでしょう。
結果として「さらに夢と希望を膨らませ」あなたは前進を続けると思います。

前に進んだ先には、様々な成功法則やスピリチュアルな教えが待っています、
どれもこれも魅力的な内容で、あなたは夢中になって研究するでしょう。
そして叶ったり叶わなかったりを繰り返しつつ、なんとなく適う事が多くなってきたように
感じ始めると「これで正しいんだ」と思うと同時に、適わない事が出てくると「まだ何かが
間違っているのか」とも思い始めます。
そして延々と成功メソッドを探し続けます、「希望に胸を膨らませ」ながらです。

もう今までにこれだけ似たような事ばかり書いてあるブログを読んでいる人ならピンと
来たと思いますが、上記の例は完全に「エゴが作り上げたポジティブストーリー」の中で
踊らされている典型例です。 夢や希望という「未来」に焦点を向け、「今」に在りません。

これでは叶ったり叶わなかったりは当たり前です。何故ならそうでないと「未来への希望」に
焦点が合わないからです、勝利と敗北を繰り返すからこそ「未来への希望」は生まれるのです。
なんでもかんでも満たされてしまったらポジティブストーリーは終わってしまいます、
それはエゴにとっての終焉を意味します、ですから何が何でも終わらせまいとエゴは頑張ります。

今まで色々と研究や実践をしてきたメソッドの類がいつの間にか「エゴの作った
ストーリー」の演出の為に利用されていないか注意すべきです。

それは「希望」という皮を被り、いかにも味方だよという振りをして隣にいるのです。

エゴの作ったストーリーに気付き、それまでのストーリーに絡んでいた信念や思考は
全て幻であった、
と認識していけば、最後には何も残らないでしょう。
その何も残らない状態が「今」であり、「何もしない」状態です。
度々書いている「思考を止める」という事ですが、何故思考を止める事が
大事なのかと言いますと、エゴは思考をとっかかりにして活動を始めるからです。

大体、痛いとか苦しいとかの一般的に「ネガティブ」とされる思考にくっついて、
起きてもいない未来の事や、後悔している過去へとタイムスリップして
「こうなると嫌だから」、あるいは「もうこうなるのは嫌だ」
「だから~をしなきゃいけない」という思考へと導きます。

「だから、瞑想しなきゃダメだ」「だから、神に祈らないとダメだ」
「だから、ナントカメソッドをやらないとダメだ」

「だから、このブログを読まないとダメだ」(一番ダメです、すぐにやめましょう)

前もちょっと書きましたが、エゴに「今」を明け渡していると、結局そこを起点にした
未来も過去も、エゴによって操られた、エゴにとって心地の良いストーリーの中に
いる事になってしまいます。これは無理矢理ポジティブシンキングをして
表面上は希望に満ちた思いで満たしても同じ事です(希望に満ちて未来に向け頑張る、という
エゴが用意したストーリーにいるだけです)


語弊がある言い方ですが夢も希望も無いんですよ、夢も希望も
エゴが消滅しないために用意したおやつみたいなもので、それに釣られると
見かけはポジティブに頑張ってる感じになるのでやっかいと言えばやっかいです。
「今」をエゴに明け渡さなければ、夢や希望が生まれる余地はありません。
何故なら「今」に不足は無くなってしまっているからです。

不足が存在するから「それらの不足を解決できる!」という「夢」と「希望」が生まれるわけで、
不足を感じなければ夢も希望もクソもありません。(ついでに「不足だらけだ」という「絶望」も
生まれません
)思考が止まると、不足も無く、夢も希望も絶望も無い世界が見えてきます。

それは非常に味気ない世界なのでしょうか?違います、とても愛に満ちた(この表現も
伝わりにくいからあんまり使いたくないんですけど)
世界です。

エゴに操られている時は、ゲームで言えばプレイヤーの立場です。難しい面をクリアしたり、
強いモンスターの尻尾を切ったり、皮を剥いだり、生肉を焼いたりする事に喜びを見出します。
(実際は喜びを見出しているのはエゴです)

でもクリアできなかったり、逆にモンスターに踏み潰されたりして、うまくいったり、いかなかったり
の繰り返しです。今度こそクリアするぞという希望、あるいはもうこんなクソゲーやってられっかという
絶望が現れては消えていきます。

エゴに気付き、エゴからの解放を垣間見ると、今度はゲームをアップグレードする
プログラマーの立場へと視点が変わります。プログラマーにとっての喜びは、自分の創った
ゲームの世界が完璧に調和している事です。そこには希望も絶望もありません、
ただ純粋に「在る」だけなのです。そこに無常の喜びと幸せが感じられるのです。

ですから「今」考えている事は本当に純粋な「今」なのか注意してみて下さい。
知らず知らずの内にエゴが作り出したストーリーを生きていないか
感じてみる事が大事です。もしも「エゴが作ったストーリーの中にいる」と気付けたら、
もうそれで終わりです。幻に気付けたら、もう幻には何の力もありません。

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