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知らんモンは知らん

スピリチュアル系の願望実現ブログと思いきやそうでもない

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スピ系の書籍で愛とか何だとかは良く出てきますが、
これは非常に誤解を招きやすいのではと思います。
数か月前からこのブログで使用をなるべく控えようとしている単語は
「愛」「神」「エゴ」の三つです。

この三つは読者を適当に煙に巻くには最適なんですが、
単語から連想されるイメージが非常に固定化されやすいので
扱いにくい単語でもあります。

愛っつーとどうしても異性への愛情とか、家族への愛情とか
ある対象からある対象への想いみたいな感じになりますし、
別にそれはそれで構わないのですが、スピ系で連発される「愛」を同じように
取ると少々ややこしい事になります。

もちろん彼女の笑顔が見たくて何時間も買い物に付き合う、とかの
一般的なイメージの愛情も否定されるものではありません。
まあ私は昨日、お昼寝したかったのに彼女にぶっ飛ばすぞと脅されて
何時間も買い物に付き合わされて死にそうになったんですけど。

話が逸れましたが、結局愛がどうのこうのと言うのは
ポジティブシンキングの域を出ていません。
スピ系でよく出てくる「そのままで良い」とか「そのままの自分を愛しましょう」という
フレーズは、間違ってはいないのですが、そのまんま受け取ると誤解の元となります。


愛を送る対象もいなければ、愛を受け取る対象も本来は居ない事に気付きましょう。
どうしても「私は~を愛します」的に捉えてしまい、読者の皆さんのメールを見ても
混乱している方が多いように見受けられます。

前も書きましたが「すき家について膨大な知識を持っている人」「すき家そのもの」では
雲泥の差があるのと同じで、「愛している人」「愛そのもの」では、やはり大きな違いが
あるのであります。
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感情に振り回されるのではなく感情を華麗にスルーするべし的な事を書きましたが、
これが意外と難しいのは、どうしても感情とは何らかのパワーを持ったものとして
捉えやすいからです。

ポジティブになろうが、ネガティブになろうが、大した違いはありません、
雨が降ってるか雪が降ってるか程度であります。
感情とは直接自分とは関係ありません、ですから感情によって生み出される思考も、
やはり関係ありません。

ですから感情をコントロールする必要はありませんし、思考もコントロールする必要は
ありません。感情が外の天気なら思考はラジオの音みたいなものです。
天気が雪で、ラジオから「本日の積雪はどうのこうの」とか流れていても
あなたには関係ありません。

「天気が雪で嫌だ」と思ってもそれはあなたとは関係ないし、「外が凍っているかしら」と
ネガティブに思ってもあなたとは関係ないのです。

同じように、「天気が晴れでお出かけ日和で、隣のネエチャンのパンチラも見れてラッキー」とか
「天気は晴れてて気持ち良く散歩できて、道で一万円拾ってネコババして最高」というように
ポジティブに思っても、やっぱりあなたとは関係ありません。

つまり感情や思考をもとにした「私」は本来存在しません。
存在しないのですが、何故か感情や思考を取っ掛かりにして「私」を創ります。
極端に言えば感情や思考から出てきたものは全部ウソという事になります。

「世界は自分でした!」という言葉も、人に伝えるために思考で文章にした時点で、
ウソであるとも言えます。この理屈で言うと、このブログの内容も全部ウソという
衝撃の事実が判明するわけであります。

こっからがややこしいのですが、ウソ情報をもとにああだこうだと考えるから
いつまで経っても同じところを回ってしまうのであります。
スピ系の掲示板とかで、厚意でアドバイスしている人も多いと思いますが、
思考をもとに生み出されている以上、アドバイスは全てウソ情報であるという皮肉な結果が
生まれてしまうのです。


これがお金を取っているセミナーとかだともっと悲惨で、セミナー主催者が熱心にセミナーを
行えば行うほど、参加者がウソにお金を払い続けるというある意味滑稽な展開となってしまいます。
セミナーの主催者が参加者に「思考から出てくる情報は全部ウソだよ」と気付かせるように
持っていけば良いのですがまあそれだと集金出来ないけどね


ウソ・大袈裟・紛らわしいを回避するにはJAROに電話する前に、やはり自分自身で
何かに気付く事です。そのためにはまず感情や思考とお別れする事です。
って、これも感覚を思考で文章にしているだけなので、やっぱりウソという事に
なってしまうんですけどね。
前回も書きましたが、何故理屈付けを常に行なってしまうのでしょうか。
それは結局の所、「私」を強固に守るためです、何だかんだ言っても「私」を手放し、
破壊するのは凄まじい恐怖であり、やっぱり猫が好き、じゃなくて
やっぱり「私」が好きなのであります。

「私」がいなくなりました、やったーという経験をしたところで、
じゃあこれからバシバシ願望を叶えるでござる、となってしまうと、まさに元の木阿弥って奴です。

結局「私」が消えただの何だの言っても「願望をバシバシ叶える私」「願望が既に叶ってる私」は
強固に残っています。というかこれだけはゆずれねえ、となってしまっています。
「私」が居る以上、「私」が都合が悪いと感じる事は絶対に排除しようとします。
「願望を叶える私」が消えてしまっては大変に具合が悪いので、何がなんでも「これはゆずれない」と
なってしまい、再び振り出しへと戻ります。

そんなものはどうでも良いのです、「私」からの思考も感情も特にこれといった力はありません。
好きで好きでたまらない「私」を捨てる時が目覚める時であります。

ただ感覚的に難しいのが「私」が居なくなった時に感じる高揚感や全能感は
「素晴らしい!」という感情にすり変わる事が非常に多いのであります、つまり「私」視点から
見れば「非常にポジティブ極まりない素晴らしい感情!」と解釈してしまいます。

ですから感情を観察するのは良いとしても、感情に振り回されないように
しなければなりません。


確かに「私」が消えた時には素晴らしい高揚感、全能感を感じ、あまりの衝撃に感涙に
むせび泣くかもしれません。

が、だからと言ってどんなに泣いた所で、その辺の主婦が一日の台所仕事で使う
水の量より泣けるわけでもありません。しかし、感動した後に「こんなに感激して泣けるなんて
素晴らしい!」と、「私」が消えた途端にちゃっかりと「私」視点が堂々と居座っています。
これは感情を観察しているようで感情に振り回されている良い例であります。

結局、「私」がある限りどんなに素晴らしい(と感じる)物も大した価値は無いのです、
そして「私」が汚いとかこれはダメだとか感じる物も、別にダメでも何でも無いのです。
良いも悪いもありません。「私」の恋人や家族に対する愛と、ゴキブリは同価値なのです。

と、書くとものすごい抵抗を感じる方も多々居ると思いますが、全ての源泉になるためには
越えねばならない抵抗でもあります、それを越えたときに少々クサイ言い方ですが、
初めて世界との一体感、真実の愛みたいなのを体感できます。

世界になってしまえば、もう怖いものはありません。文字通りビックウェーブに乗っている状態です。
ちっぽけな幻想の「私」が考えうる以上の物が、流れ出てくるでしょう。
スピ系の情報はネットの普及により文字通り溢れんばかりに有りますが、
多くの知識を詰め込んでもクソの役にも立たないのがスピ系の特徴(?)でもあります。

結局はこの手のものは自分自身が「それ」にならなければ本来の意味は伝わりにくい所が
あります。ブログや書籍だと、どうしても伝える人と伝えられる人という分離を前提として
書かなければならないので、結局は情報の受け手側が気付いていくしかないと言えば、
やはりそれしかないのであります。

例を挙げれば、すき家について膨大な知識を持つ人と、すき家になってしまった人では
雲泥の差があるのです。
この「なってしまう」がポイントなのです。

そのためには前回も書きましたが、分離を生み出す「私」の正体を見抜き、
「私」と「すき家」ではなく、「すき家」しかない世界を垣間見るしかありません。

が、しかし。ここが文章で書くと難しい所なのですが、「なってしまう」という表現だと
今度は「やはり私がなるのだ」と思いがちです。
そうではなくて最初から「なっていた」事に気付くという事です。
「なっている」事が前提で「私はまだすき家になってない、それどころか吉野家にもなってない!」と
嘆くのは順番が逆です。

どうして世界が自分にならないのか、それは「私」が理屈付けを止めないからです。
じゃあ何で理屈付けをする必要があるのか、何のために?そこにポイントがあります。
何か昨晩は首都圏にもドカ雪が降ったようですが、私は昨日は夕方の5時ぐらいから飲んだくれて、
7時過ぎには帰宅して即効で寝ていたので全然知りませんでした。

もしかしたら今日の朝方は路面が凍結しまくりで、かなりビビッた方も多く居るのではと
思われます。

ところで何故路面が凍結しててビビるかというと、「コケるかもしれない」とか何だとか
色々思うからであります。本来は世界が自分なので、別にビビる必要は無いのですが、
何故かこのような思考が入って来て、それに振り回されるのが実状であります。

本来「自分「や「私」は居ないのですから「コケるかも」とかの思考は
語弊がある言い方ですが、異常なのです。

雪とか氷とか路面が在るだけで「コケるかも」と思うのは、街で綺麗なネエチャンが
歩いてるだけで「ヤレるかも」と思うのと同じです。
コケる「私」は居ないですし、もちらんネエチャンとヤレる「私」も居ません、残念でした。

「~が出来る(かも)」という思考は、その場に吹いている風のようなもので
何の力もないし何の実体もありません。過ぎ去っていく風に、いちいちああでもないこうでもないと
言ってもしょうがありません。
極端に言えば「死」もやはり過ぎ去っていくものであります。

過ぎ去っていく風に気を取られずに、在るがままに在れば、結局は何もする必要はありません。
路面が凍っていようが煮えたぎっていようが、「それ」があなたなのですから
別に弄り回す必要は無いのです「凍っているから~しよう」「煮えたぎっているから~しないと」と
いう思考は「それ」と「私」を分離する事になってしまいます。そしてまた幻想の「私」が
苦しみ続けます。

ある時はポジティブになり、ある時はネガティブになり、ある時は考え方を変えたり、
ある時は別のメソッドや別の書籍を読んだり、結局やってる事は「私」が「~しよう」を
繰り返しているだけです。

何故か?繰り返したいから繰り返しているだけです。
「でも、私はこの現状を何とかしたいんです!」と思うかもしれませんが、
だったら「私は」が実在せず、在るのは「現状」だけだと気付けば良いのです、
もっと言えば自分とは「私は」ではなく、現状そのものであるとわかれば、
別に変えようとか思わないし、変わる必要もない事に気付くでしょう。

前も同じ事書きましたが、怪物と「私」が居れば、「私」の方はコイツグロいとか
どうにかせえとか色々思うでしょうが、怪物自身なら別にグロいと思わないし、
どうにかしようとか思わないのと同じです。

そもそも怪物には「怪物グロい」という思考は絶対に生まれないはずです、
本来絶対に生まれないはずのものが生まれ、それが主導権を握っているという時点で、
やはり前述したようにそれは異常なのであります。

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職業:
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自己紹介:
かなりアバウトな性格の既婚平民

好物はすき家のチーズ牛丼・松屋のカレギュウ

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